思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

バンコクのスクンビット通り、プロンポンで起きたこと

私の声は発されるやいなや、空気中でたちまち腐敗し始め、他者に届くころには老いさらばえて弱々しく、意味は原型をとどめずに損なわれているのかもしれない、ちょうど大音量の重低音が鳴り響くディスコで、私の声が肩を並べた隣にさえ聞こえることなくかき消されてしまうように。

 

世界とおのれの内面を隔てる膜の肥厚は、鈍さとなってわたしたちの眼球を分厚い鱗に作り変えてしまうとクッツェーはかれの小説「鉄の時代」で云う。しかしこの皮膜は実は、私の身体に貼りついているのではなく、よどんだ泥水に沈む澱のように私と他者のあいだに横たわる空間全体に覆いかぶさっており、ちょうど光の焦点を拡散させて私の視界をぼやけさせる、林の中の朝霧のようなものなのかもしれない。それは私たちの目にだけではなく、耳や鼻といった感覚器官にはたらきかけてくるあらゆる存在と私のあいだにひっそりと介在している半透明の膜のようなもので、この膜を通り抜けるとき、音や光はどうしようもなく歪められて、――それらが記憶を持つものだとして――発された場所ももとの形も健忘症のように思い出せなくなる。
この膜はいつも同じ密度を保っているわけではなくて、引き伸びたり縮んだり、厚くなったり薄くなったりして濃度をすばやく変える。それで、ときには遠くまではるかに眺望を見晴るかせると思いきや、別のときには降りつもる沈殿物によって前が見えないほど濁らされてしまうこともある。濃度を変えて立ち現われる霧は、その濃密の変化によってのみしか、存在をうっすらと感知できないのかもしれない。それは私の視力を真っ白な眩しさで奪ってしまうこともあるし、あるいは光が届かない深海からゆっくりと舞いあがってゆく様に、色彩と光にかがやく世界があったことを視力がゆるやかに思い出してくることもあるかもしれない。私たちの身体はこの膜に対して透明にはなれない。もし透明であったなら、膜を通り越して音や光が発されるもとにじかに触れて、感じとることができるかもしれないのに。でも私が透明であったとして、光は私の眼球の網膜に受け止められることなく、私の頭の後方へと透過してしまうだろう。たとえ触れようとしても、煙を掴むように手のひらから虚しくすり抜けてしまうだろう。

バンコクスクンビット通り、日本人向けの飲食店や書店が立ち並ぶプロンポンには、幹線道路の直上を高架鉄道が走っており、鉄道駅の両脇を挟みこむように高級デパートのエンポリアムとエムクオーティエがそびえている。歩道橋から地上へ降りる階段下には、何人もの浮浪者が路上に座りこんで物乞いをしている。手足の指が捻じくれた男、幼い子どもにコンビニで売っているような安菓子のひときれを食わせてやっている女、頭を白く塗りたくり、アルミ箱の中の小銭を鳴らして修行僧のように施しを求める老婆。通りを歩く私は、街を行く大勢の者と同様に、見ようとしても物乞いがまるでそこにいないかのようにかれらの横を通り過ぎる。私が物乞いに金を与えないのは、単なる物見遊山の観光客にすぎない私が喜捨の真似事をすることで、かれらが私の道徳心を満足させる格安のツアーパックのためにあつらえられた道化の見世物へ落ちぶれることに耐えられないからだ。吝嗇を、良心を安易に満足させないための節制だと思いこむことで、私はかれらを透明な存在へと作り変えることに、ある種の禁欲的な喜びすら感じる。それは実際に根拠があることで、私はかれらを道化ではなく、通りすがりの通行人に対するのと同じようにかれらに対して振るまったのだから、公正にも、かれらを少なくとも自分と同程度に高貴な人間として扱ったのだ。そして私は、自分の節制を他者から吝嗇と捉えられることを拒否しないのだから、心の咎めをどこかに負い続けることで、この喜びに対して正当な権利を有するのだ。

私は物乞いたちと密かにこのような喜ばしい駆け引きを結んだはずだった。私は良心の満足を代償にして、ひっそりと目立たないまま、かれらと精神的に連帯する裏側の道筋を見出したつもりだった。だが実際はそうならなかった。男が物乞いをするときの手をぶっきらぼうに差し出す動きに、私の薄情な吝嗇さへの軽侮にも似たような誹りを感じた。私はその動きにまったく虚を突かれた思いだった。この男は私のささやかではあるが犠牲的な博愛心を理解せずに、物事をまったく字義的に捉えて私を不当に難詰しようとしていると感じた。私は高邁な約束を一方的に破られたと感じ、冷静さを失って思わず男を逆恨みしそうになる。それで私は、道行く大勢の者と同様に物乞いをいっさい歯牙にかけずに通り過ぎることで、かれらに対するいかにも正当な報酬を与えてひととき安心しようとする。当初の計画は台無しにはなったものの、私がやることは少しも変わらないのだから痛くも痒くもなかった。

薄汚れてもとの色もわからなくなった服、節くれ立って奇妙に盛り上がった手足の指関節、高架鉄道へ通じる階段下に寝そべり居間でくつろぐように息子をあやす女――こうした浮浪者の痛々しいたたずまいは、空気中にある見えない膜――この膜は日本にはなかったかもしれないが、スクンビット通りにはあった――を通過して私の網膜に飛びこむあいだに、たしかに変質し、私の視線が男の手の動きとひそかな取引を交わし、そしてその取引がみごとに破算するためのひとつの要件となってしまった。

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