思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

バッジが黒い皮膚にくっついているということ

ジョージ・フロイドの死とそれに起因するミネアポリス暴動の報道を聞くと、リチャード・ライトアメリカの息子」や、ラルフ・エリソン「見えない人間」などの以前読んだ黒人文学を思い出す。これらの小説ではいずれも、目に見えない、しかし肌にまとわりつくような人種差別に抗おうとするアメリカ黒人の自意識とその奇妙な変節が描かれる。変節と呼ぶのは、小説の主人公たちは黒人と連帯する態度を示す共産主義団体に一度は接近するものの、けっきょくは失望とともに団体から離れて、社会と自分を切り離した単独的な世界の中に沈み込んでゆくからだ。

ラルフ・エリソンが「じぶんの肌の色を忘れるとき、ひとは透明人間になってしまう」と述べるように、こうした共産主義との微妙な距離感は、皮膚の色から離れることなしに社会の問題を語ることはできないという黒人の困難な状況を反映しているように思える。「アメリカの息子」では、黒人の少年は共産主義シンパの白人の前で「黒い皮膚にくっついているバッジみたいなもの」に還元させられてしまう。黒い皮膚がバッジのようにかれに貼りついているのではない。もしそうであるなら、黒い皮膚は単にかれを特徴づけるしるしに過ぎず、かれの希望に応じて黒い皮膚をまとったり剥がしたりできることだろう。そうではなく、バッジが黒い皮膚にくっついているということは、黒い皮膚がかれと白人のあいだに張り出してきて、かれの人格と内面がそのはるか後景に退いてしまうということだ。