思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

なぜジャン・ジュネは俺を夢中にさせたのか

数年前に素粒子理論で博士号を取った後、いまは毎日ずっと物理の小ネタをツイートしたりリツイートし続ける無職の人を見つけてなんとも言えない気持ちになった。

かれは俺が10年前に恐れてあきらめた道だ。俺はあのとき、理学研究科の物性実験を選ぶことで、有用でないものに対してほとんど冷笑と変わりないような、寛容さをともなう無関心を示す社会と妥協しつつも、自分のちんけな反骨心をこっそりと満足させたのだ。

 

ちょうど証券会社の営業が株式投資を勧めるとき、媚びが入りこむことを注意深く避けることで、みせかけられた涼しい余裕がかえって顧客の欲望と焦燥を駆り立てるかのように、社会は和解を求めようと優しい手を私たちに差しのべるものだが、私がその手を無碍に払いのけることでなにかしらの忠誠を誓ったふりを示していたのは、見栄から来る苦しいやせ我慢だったのだろうか。

 

 

選びとることは俺にとってつねに妥協であると同時に、ある種の異議申し立ての産物だった。選び取られた内容物は、俺自身の人格と興味の反映というよりはむしろ、俺自身の行く道を先取りした模写であり、未来を呼び出す降霊術だった。

院試の時期にジャン・ジュネに夢中になったのは、こういうわけだ。社会はジュネという私生児が何者であろうと関わりなく泥棒と名づけるのだが、かれはみずから泥棒のように振るまうことで自分の構成物を自身の手の中に取り戻す。かれの手元にただ残っていたものにすぎなかったものは、かれ自身の模倣により、他でもないかれが選び取ったものとして聖別されるだろう。

 

つまりこういうことだ。ある選択が個人の人格と行為を構成する諸要因のモザイク的総和という名の隊商が長旅のすえに逢着する土地であるとするなら、その隊商がみずからの観念に向かって突進したときに流れ着く土地とはいったい何と呼ばれるものなのか?