思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

ゼーバルトアウステルリッツ」を読む。人間の手によって計算され、意匠をこらすことのできる、ゆるぎない建築物。夢幻のように捉えどころがなく、決して真実にたどりつくことのない、再構成しようとする意志がついに挫折しては後退を余儀なくされる歴史。これら二つの対立、あるいは代補のなかに街という中間項が入りこんで撹乱をうながすとき、語り手アウステルリッツはかれの内側にひそんでいた歴史の表象に包まれて船酔いをしたかのような惑乱を覚える。それは拒絶反応に由来する検疫システムによって建築物への飽きることない関心へと置き換えられることでこれまで抑圧してきた歴史、かれ自身が投げこまれた、悪夢と災厄へと怒涛のように雪崩れこんでいった戦乱の歴史である。

 

「真夜中の子供たち」の比喩に関する問題について時間を割いて考えてみたいのだが、学会発表の重圧に早くも押しつぶされそうだ。実験結果が磁場の変化に対して系統だってないというのが困るうえに、フィッティングの問題なのか俺のデータの取り扱いの問題なのかあるいは真に物理学的な問題なのか判然としない。

 

以前に書いていた日記のデータはgeocitiesのサービスとともに電子雲のかなたに消え去ってしまったのだが、その中にラブレーについての覚え書きが混じっており、それすらも記憶から消し去ってしまうのはなんだかもったいない気がするので想起してみることにする。

当時の教会および知識人への揶揄・批判という側面を除いて、ラブレーの小説においてなにが問題となっているかというと、それは比喩と字義の対立(第一巻の旧約聖書の曲解)あるいは深刻な隣接性・両義性(宮廷道化師トリブレ)であり、解釈の際にどちらを採用するにしろ、その選択を正当化する確乎とした地盤というものはまやかしである(第二、第三巻のとち狂った諸々の解釈と議論の応酬)ということなのであった。