思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

いまからさかのぼること6年以上前、物理学専攻の修士論文を控えていた俺は、ホメロス古代ギリシア悲劇と、古代ローマウェルギリウスによる叙事詩アエネーイス」の比較を通して、前者で与えられていた人間の激情や怒りの両義的な複雑さと豊穣に満ちた価値が後者では陳腐に単純化され頽落させられているという洞察に目がくらみ、それを立証せんと、一心不乱にソフォクレスアイスキュロスを読み返していた。ところが、ニーチェの「悲劇の誕生」においてアポロ的明晰さとディオニュソス的陶酔という二項対立によって俺の着想がより明快に、より深堀りされた形で説明されているのを読み、本当にがっかりしてしまったのだった。それからというもの執筆の意欲がすっかり失われてしまい、当初頭の中に描いていた壮大な批評は半分程度の書きかけで終わった。本来であれば続きとして、「アエネーイス」におけるカルタゴ女王ディードーの執着と悲しみが、いかに作者ウェルギリウスによって不当に貶められているかを暴くことで、古代ローマにおいて激情が契約に対して劣位に置かれていることを示すつもりだったのだ。

 

俺の論法の進め方は過度な一般化にすぎず、まさに俺自身が批評本文で断り書きしているように、

文芸作品において描かれる人間たちを取りまく詩的想像力が、当時の社会的慣習に拘束されたもので、その直接的な反映によってもたらされたとする見方は、あまりに馬鹿げた飛躍というものである。

だが、俺の傍証の積み重ね方はニーチェよりもだいぶまともなはずだし、ある経済社会において特定の感情とその発露に与えられる価値は、契約や贈与・交換といった経済システムと切り離して考えることはできないという前提は、それだけでもかなり興味深い視点だと思う。むしろ、この考察の真に批評的な価値は、詩的想像力が経済システムによって掣肘され、条件づけられているというマルクス主義的な部分にこそあるまいか。

 

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アイスキュロスエウリピデスの活躍した紀元前5世紀の古代ギリシアが、すでに鋳造貨幣が一般市民にいたるまで流通していた高度な貨幣経済社会だったことは、この論考の大きな矛盾点になっていると思われるかもしれない。しかし、かれら悲劇詩人がギリシャ神話における怒りと復讐の限りない連鎖を題材に採りながらも、しばしばアポロンの勧告やアテナの裁定といった「機械仕掛けの神」によってその悲劇の運命の輪を断ち切ることに救済を見出した点に、不可逆的な契約によってすべてを精算してしまおうとする、われわれの経済システムに固有の想像力――はるか時代を下った「アエネーイス」にもまた影響を及ぼしているところの――に縛られていた証拠を見出すことも可能なのだ。