思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

ドストエフスキーの小説について

スタヴローギンは、もし神を信じているとしても、自分が神を信じていることを信じやしないね。また神を信じていないとしても、自分が神を信じていないことを信じない男だね

おれは恐ろしく不幸だ。なぜならば、恐ろしくこわがっているからだ。恐怖は人間の呪いなのだ。・・・・・・だが、おれは主張するぞ。おれは自分が信じていないということを信じる義務があるのだ。おれは最初に手を出して、それを終えて、ドアを開いてやる。そうして救うのだ。この方法だけがすべての人を救い、次の世代のすべての人を肉体的に生まれ変わらせることになるのだ。

ドストエフスキーの描く人物たちは、ひとり残らず、自分の良識を賭け金として、それがなければ人生のいっさいが説明不能になって気が狂ってしまうような、当人の全人格に関わる思想にぎりぎりのところで賭けをしているのだが、これは日常では地中深くに埋もれていて、本人には全容がいっさい見えないままでいる。だが、なにか尋常でない事件――ドストエフスキーの小説で起きる数々の事件といえば、なにか悪い冗談にしか思えないような、きまりの悪いハプニングと呼ぶほかない――がひとたび起きると、眠っていた思想が褶曲する地層のようにむくむくと地表に露出してきて、かれの肉体や言語にとり憑く。それはかれの顔を青色や赤色にさせたり、肩をぶるぶる震わせたり、そしてなかば狂気のようにひたすら独語を発する自動機械へ変貌させる。かれ自身は、鉱脈を探ってつるはしを振るう鉱夫のように、隠された思想の全貌をまさに発話することによって掘り起こそうとしているつもりなのだが、実は、かれの発話は事件を契機として表層に噴き上がってくる諸々の身振りと区別がつかない。発話を通して思想の由来を解き明かそうとする意思はつねに地下深くに潜む思想の脈動に貫かれており、間欠泉のように前触れなく奔出する肉体の徴候そのものなのだ。