三年前の自分の日記を読むと、あのときの俺は、世界に対してただひとりの単独者として向き合うには、みずからの選択を真に倫理的なものに溶接させねばならないという強迫におびえていたように見える。当時、大学院入学試験前後に書き残したものをいくつか引用してみよう。かなり断片的であり、前後のつながりも他者には理解しがたいかもしれない。だが、いずれも、大学院進学という選択を、倫理的に卓越した観念と合一させることで、認識と行為の二項対立を超克しようとする呻吟から発されたうめきであることにちがいはない。
ジャン・ジュネが言うように、存在に倫理的な裏づけを確証するためには行為に儀礼的な証人となってもらう必要があったのであり、それはまさに第一志望に受かるということによってのみ完遂される営みだったからだ。・・・・・・・
道徳において決断と決定は区別しなければならず、そこに差延が生じるところに倫理の倫理たる基盤が発生する。従来考えられているような倫理というのは、決断が原理的なものに従った、つまりコンテクストに依存しない首尾一貫したものでなければならないという先入主から発生したものだ。倫理という概念は、事後に説明づけられたものが事前に意志へ現前していたというイデオロギーを正当化し、それを強化する。これにより道徳はその起源を捏造される。
私は何々という社会身分にあり、何々という思想と趣味を有し、何々という傾向と性格の持ち主であり、何々という人生の方角を向く何々というものである・・・・こうした叙述と形容の羅列をくり返してラベルを貼り続けようとも、私は私という人間の本質についていまだ語られていない決定的な何かの不全を確信するにちがいない。それはまさに人間が自己の完結性を暗示するあらゆる固定したイメージを自ら突き崩し、人生が他人の言葉に覆いつくされることを断乎拒否して、他ならぬ「自分の最後の言葉」によって唯一無二の人生を立証しようとするものだからだ。同一性への反抗、非-自己にならんとして自己あるいは他者との対話に入りこんでいく営み、それが人間のより根源的な生を指し示すとバフチンはドストエフスキーとの対話的自己開示によって表明する。この人間観を俺はこの上なく美しいと思う。
てめえらは揃いもそろって地方公立校出身だからな、どうせ地方出身並みのエリートコースに乗っかればご満足で、それっきり他の世界に興味ないんだろ、こんちくしょう。 いま思うと学科のやつにまともな教養書を読む奴いなさすぎ。勉強はそこそこできる割には、高校の奴らより人間的にちょっと劣ってるんじゃないのかと疑うほどだったが、実際そうなんだろ。あいつら本を読まないから人生や行為のパフォーマティブな視点をとうとうもつことはできなかったんだな。要は心に鏡をもってないんだから一本道の視野しかないのはごく当然じゃねえか。
当時の俺が憑りつかれていたのは、明らかに行為のパフォーマティブな側面であり、そこに単独者の認識におけるぎりぎりの跳躍のすべてを賭していたと言える。俺が愛していたのはまぎれもなく観念それ自体であり、また観念以外なにものも俺は愛でることができない。