思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

選択について

大学受験のときも院試のときも、工学専攻を選ぶことはできたのだ。だが、人間をひとつの鋳型に溶かしこんで実社会の要請の枠組みへと落としこもうとする圧倒的な暴力に同意するには、私は私の内部においてその芽をわずかにのぞかせている専制的権力への反骨をあまりに愛していた。その偏愛と究極的な挫折による去勢への強い予感という二極のさなかでヤジロベエのように均衡を取ろうとした結果、私は社会に唾をはきかける代わりに、社会に同意する可能性に対して唾を吐きかけるという妥協に崇高な価値を認めるに至ったのであった。学生がひとつの専攻を選んだ理由としてその学問への純粋な興味ではなく、その選択がある種の外部との観念的な相互作用による社会構成主義的な融和からもたらされたとみなした場合の簡潔な説明を求められたときに答えるその理由がこれである。

 

これはいわゆる「大人になりきれていない」若者にありがちな、自己愛性の滑稽な一人相撲に過ぎなかったのだろうか。ちょうど証券会社の営業が株式投資を顧客に勧めるとき、媚びが入りこむことを注意深く避けることで、みせかけられた涼しい余裕がかえって顧客の欲望と焦燥を駆り立てるかのように、社会は和解を求めようと優しい手を私たちに差しのべるものだが、私がその手を無碍に払いのけることでなにかしらの忠誠を誓ったふりを示していたのは、見栄から来る苦しいやせ我慢だったのだろうか。

 

訂正しておくと、私が二度目に和解の希望を切り捨てたのは、融和の結果ではなく選択することそのものに、選択という局面のアスペクトがより強調される非人称の場所に意義を見出した結果なのである。この事実が余計に、私の無力をあざ笑い、断罪しようと取り憑いて離さない後者の恐ろしい可能性を補強する羽目になるのだが、一方で始めの告白に舞い戻ってその前提を逆に照らしだす照明燈の役割も担うことになる。つまりこういうことだ。ある選択が個人の人格と行為を構成する諸要因のモザイク的総和という名の隊商が長旅のすえに逢着する土地であるとするなら、その隊商がみずからの観念に向かって突進したときに流れ着く土地とはいったい何と呼ばれるものなのか?

 

私はこうして問いの言葉からも逃避することで、反骨と呼ばれていたものの名を永久に消し去る。そして、地上の都市であったものを遠い夜の空をかたどる星座へと昇天させる魔術師のように、自分自身に対するひとりの異邦人に、ひとつの象形文字になりきろうとする。

 

「真夜中の子供たち」上巻を読んだ。