思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

母と一緒に「ファインディング・ニモ」を映画館へ観に行ったのは中学一年のときだったと思う。物忘れが激しく、そそっかしくておしゃべりなドリーの振る舞いは俺を終始いら立たせていた。彼女がクジラ語や人間の言葉を解すことがデタラメなご都合主義にしか思えず、不愉快な気持ちだったことを鮮明に覚えている。

今にして思えば、当時の俺の作品を鑑賞する目のなさには驚くばかりだ。この映画が、障害者との関わり方や、父として子とどう向き合うかをテーマにした映画であることに俺は微塵も気づかなかったし、ニモやドリーがそれぞれの障害を抱えており、かれらがそれをいかに受容するかという過程が描かれていることに思いを馳せようともしなかった。

当時の俺は障害とは無縁の子どもだったし、母子家庭で父親の存在も身近ではなかったから、人間の多様性を映画から読み取るにはテーマが高尚すぎたとでもいうのか? それとも俺は、ただぼんやりと、きらびやかな映像が眼球に次々と飛び込んでは過ぎ去るままにして、表現の裏に潜む人の感情や隠喩に気にもかけないような、軽薄で狭量な人間だったとでもいうのか?

 

作品に触れ、鑑賞し、心のうちで反芻された印象は、網目となって俺自身を偏向のもとに縛りつけ、くさびとなって俺の狭隘さをえぐり出す。作品と作品内の人物はつねに俺の解釈を超え出て、その土台を切り崩そうとしてくる。作品とは、覗き込むことで逆に俺自身の中身が暴き出される手術台のようなものだ。