思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

映画「ジョーカー」あるいはトマス・サトペン

映画好きの母が以前薦めていた映画「ジョーカー」を観た。

個人的には、どこからどこまでがアーサー・フレックの妄想であるかという点に注目してこの映画を考察することには、ゴシップ的な面白さがあるにしても、あまり価値を感じない。映画の作り手は観客をミスリーディングさせ混乱させることを目的としており、実際にそれによってこの映画の娯楽性は生まれている。だからこそと言うべきか、作品世界での真実が何であったかをあれこれと議論しても答えの出ようがないし、監督や出演俳優のコメントを参照して種明かしの気分を味わうだけに終わるだろう。そのような貧相な楽しみ方は好まないので、散漫ではあるが、別の視点から考えたことを記録しておく。

アーサーという個人の苦しみが社会的差別や格差への怒りに接続される描写は、フォークナーの小説「アブサロム、アブサロム!」におけるある場面を俺に想起させた。それは、19世紀初頭のウエスト・ヴァージニアにおいて極貧ゆえに黒人執事からも軽んじられていた少年のトマス・サトペンが、父親の雇い主である農園主個人へ抱く怒りならぬ無力感を、白人農園主全体、いやそれすらも飛び越えたある抽象的な存在への憎悪へと転じさせる場面である。

ぱっと明るい閃光が走ったかと思うとたちまち消えて何一つ残らず、灰も屑も残さず、ただ無限に広がる平原に、無傷のままの彼の無垢な心が厳しい姿で立上り、記念碑のようにそそり立っているようだった、その無垢がまるで他人に教えるように冷静に、ライフル銃の譬え話を用いてその問題を解決するように教えてくれたのであり、それが、あいつが とか、あいつを とか言う代わりに、あいつらを と言った *1

当人自身にも意識することのできないこのような憎悪の論理の跳躍は、「アブサロム、アブサロム!」におけるのと同様に、「ジョーカー」においても核心となるべき謎だ。アーサーは「僕は政治には無関心 人を笑わせたいだけ」「ああいうのは信じない 僕は何も信じない」と言いつつも、その直後に「ウェインみたいな奴らが僕の気持ちを考えるか?」とトマス・サトペンのように社会階層への怒りをぶちまけるのである。この思考の変節が、生中継で殺人の告白をした直後、司会者マレー・フランクリンとの感情を応酬するような舌戦の最中で瞬時になされたとする理由はない。最初の殺人の翌週にはすでに、ピエロという言葉が、ある社会階層――「自分より恵まれた人たちを妬んでる」落伍者――を指し示すのに使われたことにかれは喜悦している。この時点でアーサーがどこまでトマス・サトペンに接近していたかはわからないが、このときかれは、「ライフル銃の譬え話」、つまり「ライフル銃があるから、俺の腕も脚も血も骨も、おまえたちより優れているんだ」という自分自身の内なる声を確かに聞き取っていたことだろう。