「ビフォア・サンセット」を観た。
2ヶ月ぶりにボルダリングしたら、6級にすら登れなくなっていた。俺が退化したのではなく、栃木のジムのレベルが千葉とまるでちがうからだと思う。腕いたい・・・
映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」「ミッドナイト・イン・パリ」を観た。
般若心経と金剛般若経の現代語訳を読んだ。現代語では漢訳の書き下し文からかなり意訳されているようで、以下の句の連なりがかもし出す複雑怪奇さは失われている。
まさに色に住して心を生ずべからず。まさに声香味触法に住して心を生ずべからず。まさに住する所無くして、しかもその心を生ずべし。
それはともかく、金剛般若経のなかで、俺が気に入った箇所を引用しておく。
須菩提、仏に白して言う、「世尊よ、頗る衆生有りて、かくの如き言説章句を聞きて実信を生ずることを得るや、いなや。」
仏、須菩提に告げたもう、「この説を作すことなかれ、如来の滅後、後の五百歳に、戒を持し、福を修むる者ありて、この章句において、よく信心を生じ、これを以て実なりとなさん。」
ここで、弟子の須菩提(スプーティ)は釈迦に対して、「幾多の月日が流れて世代が変われば、智慧と真理を伝える経典の力も絶え果ててしまうのではなかろうか」と危惧の念をもらすのである。しかし釈迦はこれに対して、「たとえ自身が死んで五百年経とうとも(正しい教えが滅びた時代になろうとも)、徳高く、戒律を守る人びとが経典に説かれている言葉をひとたび目にすれば、かれらはそれが真実だと気づくにちがいない」と述べている。
五百年先も仏の教えが残るであろうこと、そして、自分の死後五百年経っても、徳と戒律を守る人びとがいるであろうことに釈迦がこれほど確信をもっていることに俺は強く心を打たれた。
テグジュペリよ、どうか俺をおそろしい重力の魔法から救い出しておくれ。針のむしろに寝転がるような、他者と関わることの苦しみのもとから上空へとすくい上げて、俺が自分の足でふたたび痛みのもとへと帰り着くだけの寛大さを与えておくれ。誰が帰還を待ち望んでいるわけでもないこの俺を救援隊に、自由へのすがすがしい愛情とともに他者のもとへ駆けつけることのできる救援隊にしておくれ!
だが、俺のあまのじゃくな尊大さが、砂漠のど真ん中に不時着したテグジュペリのように、こう口ずさむのを許してほしい、君らの方から駆けつけてくるな、君らは俺の視界の入らないところでせいぜい好き勝手やっているがいい、君らのもとから離れるのは俺の方からだし、駆けつけてやるのも俺の方からだ。
楽しいから山に登るのではない、遠い山並みの美しい眺望を目に収めたくて稜線を歩くのではない。誰の横槍にも邪魔立てされることなく、俺は俺の感覚を自分自身だけのものにしておきたいのだ。
先月に、阿弥陀岳をコンティニュアスで登攀中のパーティが滑落し、アンザイレンでつながれたメンバーが巻きこまれて3人が死亡した遭難事故があった。
個人的な考えだが、スタカットではなくコンティニュアスで登攀することは、滑落した際の被害拡大のリスクをいたずらに広げるだけの下策だと思う。コンティニュアスをするならトップロープでビレイヤーによって確保された状態か、フリーの状態ですべきで、それができないのなら、おとなしくスタカットするしかない。
多くの場合、アンザイレンのコンティニュアスはフリーよりもかえって危険であると考える。コンティニュアスにおいて、いざというときの確保が非常に困難である以上、パーティのあるひとりが滑落して重大な事故に見舞われる可能性は、互いにアンザイレンされた人数倍に比例するとまでは行かなくとも、それに匹敵するほどリスクは高まる。だが、それだけでなく、アンザイレンされたメンバーが芋づる式に滑落した場合、その落下荷重はきわめて大きなものになるため、リスクだけでなく滑落時の被害の大きさも同時に高まることになりかねない。
登攀パーティの連帯責任を重視して、ただひとりの死もパーティ全員の死も変わらないというなら好きにすればいいが、そんな死なばもろともの精神で山に登るのは俺はごめんだ。
5月の連休は会社の同期と奥秩父に行き、その後は上越国境稜線を単独で縦走する予定。これで遭難して新聞沙汰になったらこのブログで俺がえらそうに書いてきたことがすべて全国にさらされて、ボロクソに叩かれるのかな。そんなことになったときのために、マスメディア向けにメッセージを書き残しておこうかな。みんなこれまでありがとう。でも、もう探さないでください、わたしは山の風になりました。
2024/1/5
なぜかこのページのアクセス数が多いので、後日コンティニュアスについて考えを整理して書き直した記事のリンクを貼っておく。