スキーや冬山登山のために買った防寒用の帽子を紛失した。おそらく、2週間前に蓼科山へ行ったとき、帰りにバス停へいたる車道を歩いている途中に落としてしまったのかもしれない。冬山は装備が多いからいつかこういうことがあるんじゃないかと心配していたが、さっそくやってしまった。今回の山行は帽子なしだが、なんとかなるとは思う。
他人の心証にクソをねじ込んでやりたい
山はいい! 報告だの連絡だの相談だのしなくても、誰にもなんとも言われない! ただ生きて帰ってきさえすれば、その場の思いつきで計画を変更しようが、ひとりで雄叫びをあげようが、道端で野宿しようが、そのへんでクソを撒き散らそうが、誰にもなんとも言われない! 俺は他人の心証というやつにクソをねじ込んで、汚臭にむせ返り何も言えないでいる様を尻目にして山に登りたい! 山に登る俺の背中を、泣きはらして真っ赤になった目で恨めしげに眺めていてほしい! そして俺が寛大にも山からこの地上に下りて、他人の心証というやつのもとへ駆け寄るときも、クソを詰めこまれた臭い口で歯ぎしりを立てて、どうか俺を許さないでほしい! そうしたら俺は俺の寛大さの上にあぐらをかき、良心の優越感をたっぷりと噛みしめることで、他人の心証の権威に思うさま唾を吐きかけることができるから! それで俺はやっと、クソと涙と唾にまみれた他人の心証に優しく微笑みかけることができる気がする。
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他部署からふられた仕事を安請け合いしてしまうことに対して、先輩から「なんでもハイ、ハイと仕事を引き受けていると、抱えすぎてつぶれてしまうよ」と、忠告を受けた。たしかにそのとおりだ。いつの間にか、自分の力量も権限も超えた仕事を任せられて主担当者になっている。まるで磁力によって反発する磁石が触れることなく動くように、この仕事に関わるのを避けようとする関係者たちの動きが見えない力となって、俺が仕事の主担当になるように遠くから操っているようだ。
スタヴローギン的な
以下の文章は、メルヴィル「バートルビー」を読んで、ある人間(バートルビー)の発話をとりまく状況について書き留めたかつての思索である。
かれの発話が、まさに発話されることで、解釈を呼びこむひとつの位相をみずから選びとってしまうことを、かれ自身は押しとどめることができない。というのも、発話者の内面は、発話の前提とされ、応答の際の手引きとしてひんぱんに参照される役目を負うために、人と人のあいだのコミュニケーションにおいて仮構に設置された、その人間を不可分なく説明するひとつの本質的契機、あるいはそのときどきに応じた、人格の代理物としての地位を占めているからである。
この洞察は、心というものについての不可知主義を通り越して、自分が心で信じていることすら信じない、スタヴローギン的な独我論に行き着こうとする傾斜に満ちみちている。俺は、他者に心というものがあるとして、言葉や態度はそれを写し取ったものであり、会話は心を互いに解き明かしていく過程であるとは言わない。そうではなく、まず、たがいに意味が不明の独語をつぶやく二人の人間がいて、双方が相手の独り言を解釈しようとするとき、その言葉を生み出した心と呼ばれるものがあったにちがいないと、過去を遡って説明づけられると言いたいのだ。このちがいは微妙だが、前者の見方では、心が言葉の厳密な対応物であると積極的にみなそうとするのに対して、後者の見方では、どう好意的に見積もっても、心というものが、発話についての解釈に対応する仮設物としかみなせないという点で決定的に異なる。
だから、これはいかにも独我論的なのだが、だからといって、心が実在するとナイーブに信じこむほど他人に興味をいだいて生きているわけではないのだ。
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生ぬるい登山はもうごめんだ。自分のベストを尽くすまでもない山登りをするくらいなら、山で野垂れ死ぬほうがましだ。