思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

「インターステラー」愛情と使命感の二項対立

インターステラー」を観た。未来の五次元人やらワームホールの実在性やらタイムパラドックスやらのSF設定はひとまず置いといて、「家族への愛」と「人類救済の使命感」という二つの感情の対立・呻吟の物語として映画を読み解いてみると、いろいろな発見があるかもしれない。たとえば、ラストにおける父娘の再会シーンに象徴されるように、ここでは前者が勝利を収めるものとして称揚され、後者の堕落した成れの果てがマン博士という人物とその惨めな最期に仮託されているように見える。

しかし、人類救済プロジェクトの完遂を可能にさせる家族愛が、実はブランド教授の高邁な使命感と配慮に支えられていたことを指摘することには意義がある。教授は地球に残されている人類を移住させるプランが到底実現できないであろうことを見越しつつも、優秀なパイロットたちの希望を失わせないためにそのことを故意に隠していた。教授は必ずしも家族愛からプロジェクトを推進していたわけではなかった。しかし、プロジェクトの鍵を握るのはパイロットたちであり、かれらに家族愛の夢を見させておくことがプロジェクトを完遂させるひとつの希望であることを知っていたのだ。この意味で、家族愛は単に使命感に優越するものではなく、使命感に先立たれ、それによって可能となるものである。

計画の推進者であるマン博士もまた、当初はブランド教授と同様に救済の使命感を捧げもっていたはずである。しかしかれは極限の状況下で孤独と自己顕示欲の誘惑に敗北してエゴを選び取り、仲間を裏切ることになる。家族のいないかれが普遍的な人類愛すら拠り所とすることができなくなったとき、かれに待ち受けるのは永遠の冬眠か、さもなければ破滅と死だけだったのだ。

 

 

 ディラン・トマスの詩”Do not go gentle into that good night”と結びつけてあれこれ考察することもできるかと思ったが、なかなかまとまらないので諦めた。というかブランド教授は娘をパイロットとして宇宙に送りこんでいることは、かれもまた家族への愛情を支えにプロジェクトを企画していたことをうかがわせるのではないか? ・・・