思ったこと、考えたこと。

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映画「灼熱の魂」と古代ギリシア悲劇

「灼熱の魂」を観た。「オイディプス王」を彷彿とさせる、一見するといかにもウェルメイドなストーリーではある。しかし、ギリシア悲劇を下敷きにしつつ、レバノン出身のとあるディアスポラの家族へと移し替えて、いかに怒りの連鎖を断ち切って人々がともに生きることができるかという現代的なテーマにつなげていることに成功している。

古代ギリシア悲劇では、夫であるオイディプスが実の息子であったと知らされたイオカステは、絶望と恥辱から自殺する。オイディプスとイオカステのあいだのふたりの息子(ポリュネイケスとエテオクレス)は、国土から追放される父オイディプスの苦しみに寄り添うことなくかれを見放した結果、王権をめぐって相争い、殺し合う運命となるようオイディプスから呪いをかけられる。オイディプスとイオカステのあいだには娘がふたりおり、彼女らは父オイディプスとともに放浪のたびに付き添う。のちにふたりの息子たちはたがいに刺し違えて果てることになるが、ポリュネイケスの遺骸は弔いを禁じられ、地に投げ捨てられたままとなる。娘のひとりアンティゴネはこれを嘆き、抗議のために首を吊って自死する。古代ギリシア悲劇のこのような呪いの連環を、俺は過去に次のように言い表した。

劇中における神話上の人物は、呪いの連環を閉じてしまおうとする試みそれ自体が呪いを招くような、陰惨な運命の大きな輪のもとに囚われている。みずからが正義を担っていると確信しているときでさえ、止めどなく湧き上がる抑えがたい義憤が煙のように人間の分別を覆い隠して、かれらは呪いの応酬にひとつの清算をもたらす望みに盲目となってしまう。そして、このどす黒い憤怒の情こそが、神々への敬虔な贖いであったはずの行為を忌まわしい呪いへと変質させるのだ。

ここでは呪いと怒りの連鎖はとどまることがなく、果てしなく血が流されていく。

「灼熱の魂」では、ナワル・マルワンはイオカステに対応している。しかし、現実の過酷さとナワルに与えられる苦しみはイオカステのそれの比ではないばかりでなく、イオカステと異なり、ナワルはこの物語で自殺することも許されない。それは彼女が決してめげることのない強い精神をもち、言葉と書物と愛の力を信じる女性だからである。彼女は自分が発端となったこの悲劇、ゴルディアスの結び目を自死によって彼岸の彼方に忘却しようとは思わなかった。だから彼女は遺書と手紙を息子や娘に託したのだ。約束が守られぬ限り埋葬をこばむことは、残された双子たちがアンティゴネのような良心と死者への敬虔を持ち合わせていることへの彼女なりの賭けである。彼女は血と苦しみの連鎖を断つためにみずからポリュネイケスとなることをいとわなかった。

ナワルとその息子、娘たちは故郷を逃げ出し、故郷から迎え入れられることもない。そして、歪んだ血縁関係を一生背負いつつ、異国の地で生きていかなければならない。二重に追放されたかれらディアスポラは、オイディプスのように、容赦ない現実に翻弄され、踏みつぶされる。しかし、賢明なナワルは、自分を苦しめた現実に呪いをかけるのではなく、愛情の手紙を残すことを選んだ。これらの意味で、ナワルは愛に満ちたオイディプスであり、献身的なポリュネイケスであると同時に、勇気あるイオカステなのだ。