思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

あらかじめ画定された領土

井上雄彦の「リアル」を読む。下半身不随に見舞われたとき、自分の人生から永遠に失われることになる経験のまばゆさに目が眩んで人生を眺望する視力すら奪われてしまうのではないかという怖れと、あるいはよりおぼろげで観念的にではあるが、奪われた経験という不可能事がシーシュポス的な運命と熱情の高貴さをみずからに対して電撃のように降臨させるのではないかという自負、これら二つの衝迫のぶつかり合いが嵐のようにどよめいて俺を眠らせない。そしてまったく同じ動揺は以前にこの漫画を読んだときも俺を襲ったのだ。

思いもよらぬ狭い限界領域に人生の到達範囲が画定されることに思いを凝らしてみることで、われわれがいま現在観念的に捉え、その暫定的な解釈のもとで生きる他ないこの人生というものは、われわれの不可能事の了解が厳密に反映されたものであることが見事に暴露される。情熱を奪われた理性的存在なるものとしてのわれわれは、まず不可能事がどこにあるのかを巧妙に見定めて、しかるのちに残ったちんまりとした領土を人生の希望と呼ぶ慣習に縛られすぎている。領土を削られることを考えると夜も眠れなくなるほど怖れるのは、実際はどうかも分からないくせに、それを確実に与えられていた自分の人生の総体そのものだと頭のなかで取りちがえているからだ。これはまったく馬鹿げた人生観というものだ。しかもそうと知ってなお抜け出せないのがわれわれの病いの救いがたさなのだ。

くり返し問う必要がある。なぜ生きる前に人生を計算する必要があるというのか? 人生における希望の意味は、それなしではもはや人生が人生でなくなってしまうような、希望という言葉本来の意味から逸脱した大権をもっていはしないか? われわれはわれわれを待ち受けるべきものを希望と名づけることで、その実みずからの生にどのような線引きをしでかしてしまったのか?