思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

登山するときの身体への負荷を評価する指標として、メッツというものがあるようだ。50分で登高できる高さが高くなるほどメッツが高くなり、これはランニング速度に対応させることもできる。例えば空き身で50分に500m登ることができるならメッツ値は8.5であり、毎時8kmの速度でランニングするときの負荷に相当する。逆に言えば、50分のランニングをしたとき、その走破距離から登山時の体力を割り出すことができる。俺は時速13kmで10分走るトレーニングを週に何度かしているが、もしこれを50分継続できるなら約12メッツ、つまり50分に約800m登高できるということになる。

登高するときのメッツ値は、背負うザックの重さによって異なる。30キロのザックを背負ったとき、12メッツというのは50分で500m登る負荷に相当する。俺は35キロのザックを背負って階段の昇り降りをするトレーニングをするときがあるが、このときは20分で200m、つまり50分で500m登高するペースであり、これはおよそ13メッツである。

メッツという単位は運動の負荷を意味しており、個人の体力を指しているわけではない。俺が12~13メッツのトレーニングをしているということは、登山において13メッツの体力を発揮できることを意味しているわけではないだろう。なぜなら、数十分のトレーニングがこなせるとしても、同等のペースを長時間維持できるとは限らないからだ。にしても、あるメッツ値の運動を一定時間継続できるかということは、体力の良い指標になるだろう。

ドニー・ダーコ」を観た。これほど奇妙で得体の知れない映画を観たのは久しぶりだ。全容がまったくうかがい知れず、配置される要素の数々が互いにいがみ合うように競合し、意味がおそろしい軋みを起こして、観るものを残らず惑乱の渦に陥れる映画はいくつか知っている。たとえば、「アメリカン・ビューティー」「2001年宇宙の旅」「ミツバチのささやき」「未来世紀ブラジル」「ビッグ・リボウスキ」などがそうだった。これらの映画はいわばクリシェからもっとも隔たった場所に固有の表現の領土を見出そうとしており、それゆえに解釈されることを拒む、ときとして苛立ちにも似た身振りに満ちみちている。

ドニー・ダーコ」が要素間の不和と軋轢のただなかにのみ、その立ち位置が見いだされるような映画だと言いたいわけではない。しかし、この映画が描く、思春期特有の不安感、外見だけ取り繕われた存在のおぼろげなさは、映画を観て物語を読み解こうとする者が引きずりこまれる混乱と当惑の印象そのものと重なり合うことで、きわめて複雑な効果を生み出しているにはちがいない。

頬にひどいニキビができてしまった。週末に牛乳を2リットル飲んだせいだと思う。健康にいいからがぶ飲みしても悪いことは起きないだろうと思いこんでいたのだが、牛乳には動物性脂肪が含まれるので、これがニキビの原因になるようだ。

 

白人社会の法意識

「ヘルプ」を観た。いい映画だ。思わず涙ぐんでしまった。

エイビリーンは劇中でこう語る。

You not knowing that is what's scaring me the most. Scare me more than Jim Crow.

彼女が真におそれているのは、人種隔離政策ではなく、黒人が白人と対等に会話しているのを誰かに見られること、その他者の視線に晒されることが意味する事態に対して無自覚であるということだ(字幕では「視線を怖れている」」と訳されているが、精確ではない)。白人の雇い主の言うことに文句を言わず従い、ジム・クロウ法のもとで「黒人らしく」影のように生きているならば、誰もそんな黒人など気にも留めない。しかし、白人と対等に向かい合ったり、主人に口答えをして、白人社会から暗黙裡に要求された「黒人らしさ」の規範から逸脱するとき、白人社会は、ジム・クロウ法でさえ許さなかった弾圧をその黒人に対して許すだろう。エイビリーンは法を怖れるのではない。そうではなく、ときとして法をも越え出るような、白人社会の法意識をおそれているのだ。

この映画は、ソロモン・ノーサップの伝記的映画「それでも夜は明ける」とともに、当時の法意識や人種差別の雰囲気に飲みこまれ、しだいに肌の色そのものに対して苛立ってゆくかのような白人の意識の襞を描くことで、黒人差別の根源を探ろうとしている。