思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

黒澤明の「用心棒」を観た。いいねえ。

 

 

映画「野いちご」ではイーサクの回想として往年の家族のある日の朝食が描かれる。しかし本人のイーサクはかれの父とともに釣りに出かけており、この朝食には欠席している。つまり、イーサクの弟と婚約者サーラとのあいだの密やかな事件や、家族の朝食シーン、そしてサーラが打ち明ける内心の告白は、後年のイーサクの想像によるものか、さもなければかれの願望が都合よく作り上げたものとして受け止めなければならない。イーサクが夢で見る、妻が浮気相手と密会する場面も同様である。過去の人生のあらゆる真実がいまやかれから覆い隠されており、過去への追憶は真実を伝えるものではなく、かれの孤独、悔い、おそれが映し出す幻燈機である。

 

 

そんなことより劔北方稜線行きてえなあ。山岳会に入って確保の仕方を勉強しないとだめだ。

ID非公開さん  2015/10/3016:37:56

 

夜、山頂で、お隣さんのテントで、
クッチュクッチュっとか、パンパンパン とか連続音が聞こえました。
なんだろと思って、見ていたら、
風も無いのに、テントシートが ザクザク擦れる音がして、
定間隔で膨らんだりしぼんだりしていました。

クッチュ クッチュっ とか、パンパンパン とか連続音が聞こえました。
低いうめき声のようなものもたまに聞こえます。

いったいなんだったんでしょうか?

 

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もう5年間会っていない父親のfacebookのページを見つけた。過去20年間で顔を合わせたのは累計でも10日間を越えてはいない。

俺はときどき、自分に父親がいれば、夏目漱石「行人」の一郎のように、侮蔑と尊崇の入り混じった目で他者を見つめるときに感じるおのれの卑小さや惨めな思いを味わわずにすんだのかもしれない、あるいは、屈折した感情を交えることなく、もう少しまともに他者と接することのできる人間になれたかもしれないと思うことがある。

 

父は日系メーカーに勤務しており、一時期マレーシアにある子会社に駐在していたようだ(今もそうなのだろうか)。この俺も日系メーカーで働き、今後はしばしばタイに出張することになるだろう。父親不在の家庭で育った俺が、まるで父の背を見て選んだかのような職に就いているのは奇妙なことだ。

俺は父親というものがだれかを知っているが、自分が父親の息子であるというよりは、思い出の彼方へと去ったかれの旧い友人という感じがする。はるか過去に忘れ去って久しい旧友が、見ず知らずの他人からかれが分け隔てられているとしたら、それは、なにかしらの点において過去に共犯であったという後ろめたさにも似た意識の沈殿がかれのもとへと繋ぎ留めているからであり、それがかつての気の置けない同盟関係の残り香を格調高く伝えてくれる。俺にとっての父親も、ちょうどかつての同志と思いがけず再会したときに感じる恥じらいと、いささか困惑させるほのかな親しみの感情を俺に想起させるので、見せかけの思い出がかれから温かいなじみ深さを放射させている。だが、父親にとって実際の俺が旧友でも同志でもなかった以上、それは、顔の見えない関係がもたらした、そしていくぶん父親というものに対する肉親ゆえの憧憬がこめられた錯覚ではある。

にも関わらず、俺が父親の血をいやおうなく意識させられるときもある。それは、女性への想いがこの節操のない魂に取りついて離れないときであり、そのときにのみどうしてか、自分が父親の息子であることを観念する立場に追いやられる。いったいこの病的な熱情がどこから生まれでてくるのかと自分で訝しむほどに恋に苦しむかと思えば、しばらくすれば尊い恋をはるか彼方へと忘却しさり、地上のあらゆる女を唾棄するかのように欲望を吐いて捨てることを繰り返すさまは、まったく自分でも理解しがたい。俺の身体のなかで、父親の不在という環境が知らず知らず育て上げた、忍耐と人間ぎらいという性向と、父がその血でもってひそかに分け与えた女性への情念がせめぎ合うことで、自分がまるで複数の異なる力に引っ張られる縄の結び目かなにかであるように感じる。ちょうどペトラルカの著書「わが秘密」において、かれがアウグスティヌスに託した良心と、アウグスティヌスには与えずに自分のために取っておいた情念や淫蕩が主権を相争うするように、俺の内部で二つの異なる父親の遺産が綱引きで闘争し、俺はそのおそろしい張力に引き裂かれそうになる。

「Mr.&Mrs.スミス」「ボーン・アルティメイタム」「ディパーテッド」「ジャンゴ」を観た。「Mr.&Mrs.スミス」はいまいちだが、残り3つはすばらしい。特に「ジャンゴ」はえも言われぬ高揚を与えてくれる。

チュツオーラ「やし酒飲み」を読んだ。訳者は巻末の解説で、この小説からアフリカ人的世界観というもの(そんなものがあるとしてだが)を短絡的に導出しようとしているが、なぜ、ナイジェリアの一部族出身の作家が書き留めたものに全アフリカに共通する想像力が反映されていると信じこむことができるのだろう? あるいは、多数の国家、数え切れないほどの部族、無数の言語や習俗からなるアフリカについて、なにか共通の想像力や世界観が認められるはずだという訳者の期待はどこから来るのだろう?

いや、この言いがかりはまずかった。ただ、俺は文学を読むときに自己の期待や思想を文学に投影させ、予断していたものを文学に読み取って悦に入る読み方だけは絶対にしたくないのだ。その行為は小説を読むとは言わない。それは単なる自己紹介というものだ。