読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

文学の政治性と機能

「エマ」下巻を読んだ。原文の雰囲気は知らないが、翻訳が読みやすさに配慮しすぎているように感じた。それはまあいい。

この小説には、ナイトリーやエマを始めとして、道義心やいたわりの心、知性といった内面的な価値を何よりも重視する姿勢が描かれている。しかしその価値観の裏には、結婚する男女の身分の釣り合いが取れていなければ片方の体面を汚すことになるというイデオロギーが包み隠されている。この二つの態度はときとして深刻な背反を見せる場合があると思うのだが、ジェイン・オースティンにおいてこの矛盾は「分別」という名のもとにかき消されてしまう。作者は、荒波を立てぬように物語を予定調和的に締めくくることによって、階級というものは、外面的な建前にとどまらず、内面的な価値においてさえも当てはまるのだというメッセージを読者に送ることを躊躇しない。つまり、道義心やいたわりの心、知性を総計したとき、その価値の総量がまあまあの男性はまあまあの女性と結びつくのが本人にとって一番だし、相当量の女性は相当量の男性のもとに収まりたがるのだから、階級制度はわりかし根拠のあるもので、けっきょくのところそんなに悪いものではない、というわけだ。ここでは単に階級制度が手放しで正当化されているのではない。そうではなく、階級とは独立した、別個の価値観として提示されていたはずの内面的なものに、その土台をなし、そこに意味を与えるものとして、階級を裏から持ちこむことで、階級制度という社会的イデオロギーを再確認し、裏づけされた確かに実質のあるものとしてこれを再強化しているのである。19世紀において、オースティンの小説が「英文学」という近代学問のひとつとして、淑女の教育や植民地における英語教材として使われたのにも理由はある。

この小説は確かに面白いが、その政治性に無頓着のままであるとしたら、文学が社会の中で与えられた機能にわれわれ自身もまた組みこまれることになる。文学と、それを読むわれわれのナイーブさが結託するとき、この密約は社会的な次元において読み替えられて許されざる欺瞞となる。これは残酷なことだ。