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思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

本質主義的に語ること

なぜ日本の企業体制や社会構造の欠陥は放置されるばかりで、一向に改善の兆しが見えないのかと問いを立てるとき、そのように問うことですでに、日本にはあって欧米にはない、この国特有の問題点というものを予め措定してしまうことになる。この本質主義的な論点先取の好例は、民族性や企業文化という使い古された言葉に表れている。こうした言葉が、綿密な調査に基づいた、実体をともなうものであるかどうかはともかくとして、われわれの社会について論ずるとき、社会についてではなく、われわれについて、そして、われわれの生活や思想を形成する精神的風土とその由来について、饒舌になろうとする傾斜はたしかに存在する。この誘惑さえ民族性がもたらしたものであると考える理由はいっさいないが、われわれの社会に関して問おうとする問い方に対し、ひとつの有力な機能を果たしてくれるがゆえに、それ自体、問いに対するひときわ魅力的な処方箋を与えるものになることは注意してもいい。つまり、われわれが知らず知らず共有するとされる、仮構された精神的遺産の副産物であるところの、社会や人間集団の様式の固有性に目を向けるとき、社会階層間や個人間の、埋めようのない深刻な社会的差異をかき消してしまうということである。議論のありかに対し本質主義的な姿勢をとるとき、われわれはわれわれ自身の存在が固有性なるものの浸透圧に対して一様に無防備で、遠くまで見晴るかすことのできる、透明で均質なコロニーの一団であるかのように錯覚する。たとえ利益集団間の小競り合いがあろうとも、利益を半永久的に掠奪しようと互いに地位を脅かすような絶対的敵対者同士としての精神的な断絶はなく、最終的には言葉を交わさなくとも互いに理解可能であると感じさせてくれる、柔らかい連帯感が、人間の生得的・後天的に発生した、取り返しのつかない絶望的な差異をおおい隠してしまう。われわれは究極的にはわれわれという一人称複数で語ることのできる、思想を共有した同質な存在であるという信仰が、社会の問題をわれわれ自身の問題に置き換えるのだ。