思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

白人社会の法意識

「ヘルプ」を観た。いい映画だ。思わず涙ぐんでしまった。

エイビリーンは劇中でこう語る。

You not knowing that is what's scaring me the most. Scare me more than Jim Crow.

彼女が真におそれているのは、人種隔離政策ではなく、黒人が白人と対等に会話しているのを誰かに見られること、その他者の視線に晒されることが意味する事態に対して無自覚であるということだ(字幕では「視線を怖れている」」と訳されているが、精確ではない)。白人の雇い主の言うことに文句を言わず従い、ジム・クロウ法のもとで「黒人らしく」影のように生きているならば、誰もそんな黒人など気にも留めない。しかし、白人と対等に向かい合ったり、主人に口答えをして、白人社会から暗黙裡に要求された「黒人らしさ」の規範から逸脱するとき、白人社会は、ジム・クロウ法でさえ許さなかった弾圧をその黒人に対して許すだろう。エイビリーンは法を怖れるのではない。そうではなく、ときとして法をも越え出るような、白人社会の法意識をおそれているのだ。

この映画は、ソロモン・ノーサップの伝記的映画「それでも夜は明ける」とともに、当時の法意識や人種差別の雰囲気に飲みこまれ、しだいに肌の色そのものに対して苛立ってゆくかのような白人の意識の襞を描くことで、黒人差別の根源を探ろうとしている。

 

黒澤明の「用心棒」を観た。いいねえ。

 

 

映画「野いちご」ではイーサクの回想として往年の家族のある日の朝食が描かれる。しかし本人のイーサクはかれの父とともに釣りに出かけており、この朝食には欠席している。つまり、イーサクの弟と婚約者サーラとのあいだの密やかな事件や、家族の朝食シーン、そしてサーラが打ち明ける内心の告白は、後年のイーサクの想像によるものか、さもなければかれの願望が都合よく作り上げたものとして受け止めなければならない。イーサクが夢で見る、妻が浮気相手と密会する場面も同様である。過去の人生のあらゆる真実がいまやかれから覆い隠されており、過去への追憶は真実を伝えるものではなく、かれの孤独、悔い、おそれが映し出す幻燈機である。

 

 

そんなことより劔北方稜線行きてえなあ。山岳会に入って確保の仕方を勉強しないとだめだ。

ID非公開さん  2015/10/3016:37:56

 

夜、山頂で、お隣さんのテントで、
クッチュクッチュっとか、パンパンパン とか連続音が聞こえました。
なんだろと思って、見ていたら、
風も無いのに、テントシートが ザクザク擦れる音がして、
定間隔で膨らんだりしぼんだりしていました。

クッチュ クッチュっ とか、パンパンパン とか連続音が聞こえました。
低いうめき声のようなものもたまに聞こえます。

いったいなんだったんでしょうか?

 

閲覧数:162,214 回答数:8

もう5年間会っていない父親のfacebookのページを見つけた。過去20年間で顔を合わせたのは累計でも10日間を越えてはいない。

俺はときどき、自分に父親がいれば、夏目漱石「行人」の一郎のように、侮蔑と尊崇の入り混じった目で他者を見つめるときに感じるおのれの卑小さや惨めな思いを味わわずにすんだのかもしれない、あるいは、屈折した感情を交えることなく、もう少しまともに他者と接することのできる人間になれたかもしれないと思うことがある。

 

父は日系メーカーに勤務しており、一時期マレーシアにある子会社に駐在していたようだ(今もそうなのだろうか)。この俺も日系メーカーで働き、今後はしばしばタイに出張することになるだろう。父親不在の家庭で育った俺が、まるで父の背を見て選んだかのような職に就いているのは奇妙なことだ。

俺は父親というものがだれかを知っているが、自分が父親の息子であるというよりは、思い出の彼方へと去ったかれの旧い友人という感じがする。はるか過去に忘れ去って久しい旧友が、見ず知らずの他人からかれが分け隔てられているとしたら、それは、なにかしらの点において過去に共犯であったという後ろめたさにも似た意識の沈殿がかれのもとへと繋ぎ留めているからであり、それがかつての気の置けない同盟関係の残り香を格調高く伝えてくれる。俺にとっての父親も、ちょうどかつての同志と思いがけず再会したときに感じる恥じらいと、いささか困惑させるほのかな親しみの感情を俺に想起させるので、見せかけの思い出がかれから温かいなじみ深さを放射させている。だが、父親にとって実際の俺が旧友でも同志でもなかった以上、それは、顔の見えない関係がもたらした、そしていくぶん父親というものに対する肉親ゆえの憧憬がこめられた錯覚ではある。

にも関わらず、俺が父親の血をいやおうなく意識させられるときもある。それは、女性への想いがこの節操のない魂に取りついて離れないときであり、そのときにのみどうしてか、自分が父親の息子であることを観念する立場に追いやられる。いったいこの病的な熱情がどこから生まれでてくるのかと自分で訝しむほどに恋に苦しむかと思えば、しばらくすれば尊い恋をはるか彼方へと忘却しさり、地上のあらゆる女を唾棄するかのように欲望を吐いて捨てることを繰り返すさまは、まったく自分でも理解しがたい。俺の身体のなかで、父親の不在という環境が知らず知らず育て上げた、忍耐と人間ぎらいという性向と、父がその血でもってひそかに分け与えた女性への情念がせめぎ合うことで、自分がまるで複数の異なる力に引っ張られる縄の結び目かなにかであるように感じる。ちょうどペトラルカの著書「わが秘密」において、かれがアウグスティヌスに託した良心と、アウグスティヌスには与えずに自分のために取っておいた情念や淫蕩が主権を相争うするように、俺の内部で二つの異なる父親の遺産が綱引きで闘争し、俺はそのおそろしい張力に引き裂かれそうになる。