思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

タイ人女性について

親しくしていたタイ人が今週末に帰国する。水族館や鎌倉に行ったり、二人そろって風邪を引いたときに気遣い合ったり、片思いの人が誰かを互いに吐露し合ったり、毎日lineで会話をしたり、短い期間だったが彼女は良い友人だった。彼女は社交性が高くて誰に対してもフレンドリーだったので、自分だけが特別親しい存在だとは思わないが、それでも俺にとっては、気兼ねなく振るまえる好ましい人には違いなかった。

 タイ人女性の屈託のない微笑みには本当に驚かされる。俺は他者と接するときに屈託のある人が好きだと自分で思っていたのだが、あの心をすっかり許したような柔らかな笑みを前にすると、自分が彼女たちの中で特別な地位を占めているような優雅な勘違いをついひととき味わってしまう。まったく馬鹿げたことなので、恥じ入りたくなるほどなのだが、この心理は一考するに値する。

 

彼女たちが男性に示すコケットリーは必ずしもそれほど洗練されているわけではない。人見知りをするし、饒舌でもないし、お世辞を言うわけでもない。ただ、人に対して物怖じせず、行動に迷いが見えないので、日本人女性と比較すると毅然として見える。たとえば人に話しかけるときや、相手の言うことを理解できず「あぁ?」と聞き返すとき、そしてひとりごつときのつぶやき一つでさえも、人の目を気にして恥じらいを見せることはない。自意識過剰のあまり、自分の行動に対して距離を置こうとする態度がないので、媚を見せつけられるような嫌味がまったくない。

 だが、彼女たちにコケットリーがないと見るのは誤りで、友好的に振るまうという点にかけては、そのコケットリーはバリエーションに富んでいるようだ。たとえばお菓子をくれる、lineでいっぱい話しかけてくる、自分の写真を送ってくる、ボディタッチをしてくる、かわいらしい冗談(※)を言ってくる。そのさり気なさが嫌味のなさと配合されることで、媚がさも媚でないような錯覚を誘い、純粋な友好から発されたものだという印象を与える。だから男は、それがコケットリーではなく、自分に対してだけ示されたものだと容易に勘違いして、内心は小躍りしてしまうのだ。

 

※彼女たちの冗談の一例を挙げよう。お菓子をくれるときに「お金払ってね!」と言う。こちらの仕事を手伝ってくれたときに「バーツ!」と手を差し出す。「夜の社員寮にはお化けが出るかもね!」と言う。すぐには冗談だと理解できないので、こちらがうまく返せた試しがないのだが、それにしてもかわいい。

哲学はクソの役にも立たねえ

企業勤めをしていて驚くのは、文学や哲学が社会に順応する上でまったくクソの役にも立たないどころか、むしろそこに書かれていることをいっさい忘れ去らないと、他者とのコミュニケーションにおいて重い足かせにしかならないということだ。

たとえば、俺はジェンダー異性愛というものへの不信感をジェンダー理論の書籍によって植えつけられたが、そこに書かれていること、たとえば性というものが決して生得的なものではなく、文化・メディア・行動様式・ホルモン・その他の要素といった無数のマトリックスの網の目から、社会との相互作用によって初めて浮上してくるような、構成的な規範に対する名称だということを俺が信じていたとして、それが職場の女の子と楽しく食事をしてうまく会話をこなしたり、女性にモテることにどう役立つというのだろうか?

俺は書籍に書かれていることがでっち上げのデタラメだとは思っていない。むしろ、俺は性というもの、少なくとも異性愛というものが社会構成的な観念だということを本当に信じてすらいる。だが、彼女たちの愛想笑いに対して自然に笑い返したり、いろいろ話をしたり、ときとして気立てよく気を遣ってやるときには、その信念は邪魔者にしかならない。もっというと、女の子と楽しくやっていくには哲学書に書かれていることがひとつ残らずデタラメだということを信じているふりをしていなければならないということだ。

これはジェンダーだけの話ではなくて、職務をこなして労働すること、企業勤めの社会人として生活を送ること全般に当てはまる。これは俺にとってはかなり屈辱的で、苛立ちすら感じることさえあるのだが、どうしようもない。

残雪期焼岳と、美ヶ原-霧ヶ峰

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5月4日に焼岳に登ってきた。翌5月5日の下山後は上高地から松本まで行き、5月6日は美ヶ原から霧ヶ峰まで歩いてきた。以下は焼岳に登ったときの写真である。雪山のよどみない雄渾に比べたら、美ヶ原や霧ヶ峰の悠々とした風景はあまりに締まりがなく、かすんでしまう。

 

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美ヶ原から霧ヶ峰まで歩き通すのは過酷だった。歩いたのは半分ほどが舗装道路で、途上のレストハウスや自販機で食料を補給しながら霧ヶ峰までたどり着いた。

登山を楽しみたいわけではなかった。車道と並んで登山道が続いているにも関わらず、楽をしたいばかりに俺は車道を歩き続けたのだった。その意味でこれはハイキングですらなかった。ただ、俺は焼岳から下山してきたとき、いっそのことこの世に生まれてこなきゃあ良かったと思えるほどの苦しみを味わうことなく、それどころか自分が山でベストを尽くしたと胸をはることもできぬまま帰路に着くことに、どうしようもない惨めさを感じたのだった。そして、上高地から松本駅に着いたとき、おそれにとり憑かれた人間が自分以外のすべてを振り払うようにがむしゃらにその場から逃げ去るように、美ヶ原から霧ヶ峰まで歩き通すことを心に決めたのだった。

見ろ、俺はベストを尽くした! 車道を歩こうが途上で補給をしようが、こうと決めたことをやり遂げる苦しみをしっかりと握りしめて、その感触を余すところなくすみずみまで味わった! すべての表象が燃えつきた消し炭のように崩れ去り、世界がインパクトと衝迫の渦に飲みこまれた後に、はかなげに空気中を漂っていた俺の意志が凝固して、燃える水晶のように俺の前にまばゆく屹立する! これが山に登るということだ!

新潟-群馬県境の例年この時期の積雪状況を調べてみたが、こんなに積もっているとは思わなかった。いま計画中の縦走コースは、悪天候になったときが非常に厳しく、停滞を見こんで予備日を2日以上設けないと危険すぎる。

登ってみなくてもこの登山が無謀ということは分かった。残念だがあきらめる。