山登りと女のことしか考えられないとか言いつつ、山に登ってるときでも女のこと考えてるし、山から下りても女のこと考えてるじゃねえか
哲学はクソの役にも立たねえ
企業勤めをしていて驚くのは、文学や哲学が社会に順応する上でまったくクソの役にも立たないどころか、むしろそこに書かれていることをいっさい忘れ去らないと、他者とのコミュニケーションにおいて重い足かせにしかならないということだ。
たとえば、俺はジェンダーや異性愛というものへの不信感をジェンダー理論の書籍によって植えつけられたが、そこに書かれていること、たとえば性というものが決して生得的なものではなく、文化・メディア・行動様式・ホルモン・その他の要素といった無数のマトリックスの網の目から、社会との相互作用によって初めて浮上してくるような、構成的な規範に対する名称だということを俺が信じていたとして、それが職場の女の子と楽しく食事をしてうまく会話をこなしたり、女性にモテることにどう役立つというのだろうか?
俺は書籍に書かれていることがでっち上げのデタラメだとは思っていない。むしろ、俺は性というもの、少なくとも異性愛というものが社会構成的な観念だということを本当に信じてすらいる。だが、彼女たちの愛想笑いに対して自然に笑い返したり、いろいろ話をしたり、ときとして気立てよく気を遣ってやるときには、その信念は邪魔者にしかならない。もっというと、女の子と楽しくやっていくには哲学書に書かれていることがひとつ残らずデタラメだということを信じているふりをしていなければならないということだ。
これはジェンダーだけの話ではなくて、職務をこなして労働すること、企業勤めの社会人として生活を送ること全般に当てはまる。これは俺にとってはかなり屈辱的で、苛立ちすら感じることさえあるのだが、どうしようもない。
残雪期焼岳と、美ヶ原-霧ヶ峰
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5月4日に焼岳に登ってきた。翌5月5日の下山後は上高地から松本まで行き、5月6日は美ヶ原から霧ヶ峰まで歩いてきた。以下は焼岳に登ったときの写真である。雪山のよどみない雄渾に比べたら、美ヶ原や霧ヶ峰の悠々とした風景はあまりに締まりがなく、かすんでしまう。
美ヶ原から霧ヶ峰まで歩き通すのは過酷だった。歩いたのは半分ほどが舗装道路で、途上のレストハウスや自販機で食料を補給しながら霧ヶ峰までたどり着いた。
登山を楽しみたいわけではなかった。車道と並んで登山道が続いているにも関わらず、楽をしたいばかりに俺は車道を歩き続けたのだった。その意味でこれはハイキングですらなかった。ただ、俺は焼岳から下山してきたとき、いっそのことこの世に生まれてこなきゃあ良かったと思えるほどの苦しみを味わうことなく、それどころか自分が山でベストを尽くしたと胸をはることもできぬまま帰路に着くことに、どうしようもない惨めさを感じたのだった。そして、上高地から松本駅に着いたとき、おそれにとり憑かれた人間が自分以外のすべてを振り払うようにがむしゃらにその場から逃げ去るように、美ヶ原から霧ヶ峰まで歩き通すことを心に決めたのだった。
見ろ、俺はベストを尽くした! 車道を歩こうが途上で補給をしようが、こうと決めたことをやり遂げる苦しみをしっかりと握りしめて、その感触を余すところなくすみずみまで味わった! すべての表象が燃えつきた消し炭のように崩れ去り、世界がインパクトと衝迫の渦に飲みこまれた後に、はかなげに空気中を漂っていた俺の意志が凝固して、燃える水晶のように俺の前にまばゆく屹立する! これが山に登るということだ!
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「宮本から君へ」を読む。俺と同じ社会人になりたてで、女のことで頭がいっぱいの青年の話らしい。どこにでもいるつまらない男の話で、どうしてこんなに胸が揺さぶられるのだろう。