思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

良い映画、良くない映画

ゴーン・ガール」を観た。あの女はサイコパスだ、だからどうした?なぜこんなできそこないのサスペンスがIMDb250にランキングされている? もしこの映画に、エイミーという悲劇の女性の生き様ではなく、結婚生活に対する容赦ない洞察を見出すのだとしても、「アメリカン・ビューティー」「バージニア・ウルフなんかこわくない」という映画がすでにあることをわれわれは思い出す。そして、「ゴーン・ガール」で開陳されている洞察は、この二作品と比べたとき、あまりに小奇麗で小さくまとまりすぎており、ほとんど幼稚とさえいえるものだ。

トレインスポッティング」を観た。すばらしい。冒頭のモノローグは俺に鮮烈な感情を思い出させる。

人生で何を選ぶ? 出世 家族 大型テレビ洗濯機 車 CDプレイヤー 健康 低コレステロール 保険 固定金利の住宅ローン マイホーム 友達 レジャーウェア ローンで買う高級なスーツとベスト 単なる暇つぶしの日曜大工 くだらないクイズ番組 ジャンクフード 腐った体をさらすだけのみじめな老後 出来損ないのガキにもうとまれる

それが"豊かな人生" だが俺はご免だ

豊かな人生なんか興味ない 理由か? 理由はない

重みの感情

歩荷訓練のために約30キロのザックを準備する。両手でショルダーハーネスをつかんで思い切りよく持ち上げ、かがんだ姿勢で太ももの上で支えるように持ち上げる。次に、素早くショルダーに片腕を通し、背を折り曲げてザックを背中にのしかからせる。一呼吸おいて、軽く跳び上がってザックの重みを空中に開放し、その瞬間にもう片方の腕をするりとショルダーに通す。ザックが重力に打ち負けるとき、それは俺の肩に食いこみ、俺を地べたに引きずり降ろそうと俺の背にしがみついてくる。これでまだ終わりではない。俺はもう一度小気味よく跳び上がり、ザックの重みを腰で支えられるようにその高さと位置を小刻みに調整する。背筋を伸ばして、ザックを背中に吸いつかせるかのように、ショルダーストラップを強く引き締める。肩がほどよく締めつけられて、たくましい男に両腕で抱きしめられた女の細い身体のようにあえなくきしむ。仕上げに、腰の骨にちょうど引っかかるようにヒップベルトを気合いを入れて締める。すると肩の食いこみはするりと解けて、ザックの重みは尻から大腿の裏、ふくろはぎへとじっくり伝わっていき、それはかかとで大地の重みとしてじかに感じるようになる。呻吟するかかとが次第に熱を帯び、熱が両脚を経て体幹をせり上がり腰を鷲づかみにする。ザックの重みと地面の反発力が激しく突っ張り合うところ、その挟み撃ちの場として俺の肉体は"熱的に"顕現する。このとき、俺は自由であるということの感情をこの上なく汲みつくせる気がするのだ。

メモ。皇海山日光白根山は縦走で歩き通すことができる。ただし、一般登山道ではなく、バリエーションルートとなる。浅間山四阿山も峠を超えて歩き通すことができる。また、妙高山火打山戸隠連峰をつなげて縦走することもできる。

積雪期 赤岳登山 & 三百名山制覇じいさん

 

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積雪期の八ヶ岳に行ってきた。美濃戸口から行者小屋を経て文三郎尾根から赤岳に登頂し、地蔵尾根から降りるルートである。

稜線上の気温は-7℃で、強風がすさまじかった。手袋を二重にしていたが、それでも指先が冷たくなった。山頂で昼食を取っているときは、身体が冷えているだけでなく、寒すぎるということがなぜか無性に怖ろしくて、震えが止まらなかった。山頂では日本三百名山を制覇した登山歴50年の爺さんに会い、雪山の知識や技術についていろいろ教わった。爺さんいわく、山頂での体感温度は-15℃程度だろうが、冬の八ヶ岳はもっと風が強いときもあると聞いて思わず身震いした。爺さんはこれから地蔵尾根に下るがついてくるかと尋ねたので、寒さに怖じ気をなして不安だった俺は、提案に同意してパーティを組むことにし、美濃戸口までともに下山してきた。帰りは爺さんの自家用車に同乗して、茅野駅まで送っていただいた。あらためて感謝申し上げる。

今回の山行では本格的な雪山というものを垣間見ることができた。雪山では強風がもっとも怖ろしいことを思い知った。これに関連して、自分の装備の足りない点がはっきりした。

1.ピッケルはリーシュを胸に巻かないと、状況に応じて持つ手を変えることができず不便である。

2. 分厚いだけしか能がない安物のスキー用手袋では指先が冷たくなるので、ちゃんとしたものを買うべきだ。また、手袋を外したときに強風にあおられて吹き飛ばされないように、リーシュで手首につなぎ留めておくべきである。

3. 零下の環境ではスマホの電源が落ちる。充電器につないでいても回復することはない。スマホにカイロを貼りつけておけば、あるいは対策になるかもしれない。

4. 風が強いとバラクラバをかぶっていても顔面が非常に冷たい。緊急用のカイロをもっていくのが良い。

過酷な山は、俺の内部に闖入して俺を精神的な吃りにさせるあらゆる観念と表象を足元の地上へ追い払ってしまう。このとき、俺はただ衝迫とインパクトの渦の集合体となり、世界が遠い山並みの山肌で、雪煙舞い上げる切り立った稜線で感じる感覚を同時に感じるのだ。

「三四郎」の美禰子について

俺が以前食事に誘ってみたという職場の先輩は、「三四郎」に登場する美禰子にとてもよく似ている。彼女は美禰子ほどプライドが高くはないようだし、明敏でもなさそうだ。美貌もそれほど群を抜いているわけではないかもしれない。だが、コケットリーを振りまいて男を喜ばせ、眩惑し、ときとして無性に苛立たせる、古典小説に出てくるような女性がこうして現実にいるということは、俺にとって新鮮な驚きだった。俺は彼女の性向をまるで知らなかったわけではないが、見ていてなにかいかがわしさを感じさせるほどの媚びを男に対して安売りするのを、あれほどいとわない女性だとは思わなかったのだ。

夏目漱石ならば、あのような女性を「自ら識らざる偽善者」(アンコンシャス・ヒポクリット)と評するのだろう。自分の行為を自分で認識していないから、媚態を操って平気で男を翻弄することもできるのにちがいない、という考え方である。だが、「自ら識らざる偽善者」という言葉を男性が口にすることによって、自分の行為が何を意味しているのか「識っている」われわれ男性が正統であるとされ、自分の行為が何を意味しているのか「識らない」女性は道徳的に劣った存在にされてしまう。そして、他人の行為にまなざしを注ぎ、分析し、解釈する観察者として男性を想定するとき、女性はつねに解釈される側、つまり、自分の行為が何を意味しているのか自分で把握することが許されない位置に追いこまれる。それは、女性のコケットリーをコケットリーとして受け取って、喜び、期待し、落ちこみ、苛立つのがつねに男性の側だからだ。だから、「自ら識らざる偽善者」という女性への評言は、男性の視線に偏りすぎているというよりも、むしろ自分が男性であるという表明のトートロジーにしかなっていない。

とはいえ、漱石は美禰子を終始観察される側として描いているわけではなく、逆に、男性の言葉によってついに語られることのない美禰子の真意が、「三四郎」の主題を裏側から照らしてもいるのである。男性の視線で美禰子を観察することをやめて、われわれが美禰子自身であろうとするとき、「自ら識らざる偽善者」という分析は後退させられる。

だが、たとえそうだとしても、先輩の女性と俺の関係がちょうど美禰子と三四郎のそれに似ていることは否定しようもない。彼女の生きる世界は俺が生きる世界とあまりにかけ離れているので、彼女の存在はつねに俺にとってひとつの大きな謎となるのである。

24日の夜に俺に何があったか? 

あのとき、クリスマス・イブの夜に俺に何があったか? ロンゴスの恋愛物語「ダフニスとクロエー」を思い出してほしい。牧夫ダフニスは村の少女クロエーと互いに惹かれ合い、やがて野原に寝そべって抱き合ったり口づけをする。しかし、牧夫ダフニスはまだ若く純朴であったために、自分の溢れ出る熱い衝動をどうやって沈めるかが分からず、悶々とした感情に苦しんでいた。それを見て取った村の女が、自分の欲望を満たすことを裏の目的として、ダフニスにひそかに手ほどきをする。ダフニスはこうしてクロエーと思いを遂げ、恋の苦しみを癒やす術を知るのである。

 俺とダフニスの対照は、ちょうどソフォクレスの悲劇「オイディプス王」におけるテイレシアスとオイディプスのそれのようである。オイディプスは自分がどんなことをしでかすのかまるで知らなかったが、それゆえに筋書きを完成させるための行動を知らないうちに首尾よくこなしていた。一方で、テイレシアスは、筋書きの結末こそ知っていたが、事態はかれの前を通り過ぎるだけで、ついに筋書きに関与することはできなかった。

あのときの俺はダフニスでもオイディプスでもなかった。むしろ、知りすぎていたがゆえに、つねに事態が手遅れとなってしまう盲目のテイレシアスだった。この比喩はかなり婉曲的ではあるだろうが、一般に公開される日記としてあのときのことを書くには、それほど回りくどいものだとは思わない。