思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

言葉から隔離された人びと-踏みとどまる人びと

フォークナー「死の床に横たわりて」を読んだ。一部難解で、意味が取れない箇所があった。この小説と同じく、貧しいアメリカ農民家族の旅の軌跡を描いた「怒りの葡萄」よりもいっそう救いがなく痛ましい。このやるせない読後感は、リチャード・ライトの「アメリカの息子」や、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」に似ている。

死の床に横たわりて」のアディ、「アメリカの息子」のビガー、そしてワーニャにとっては、アディの言葉を借りれば、「言葉なんてものが人間のいおうとしてることにぴたりとあてはまったためし」などなく、言葉は行為からすでに「ひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしま」っていたのだ。そして、「ただの音にすぎない」言葉が、「手早く無実に、細い一列にならんで、まっすぐ空に上って」いくのを不信の目でうち眺めることしかできない。容赦ない膂力をふるう嵐が過ぎ去るのをじっと耐えしのびながら、かれらはみじめな家畜のように、なにを選び取ることもできないまま、ただ黙して死んでいく。それによって、初めから語る言葉など持ち合わせていなかったかのように世間から扱われ、かれらという人間が「そこにいたこと」のかすかな証すら根こそぎにされてしまう。世間とは、言葉をわがものとし権勢をふるう多数者のことだ。言葉がほんとうは何を表すのか知らず、言葉の表す感情をいっさい感じたことがなくとも、「人間がお互いを利用し合う」ためだけに作り上げられた言葉に密着しさえすれば、世間の側に立つことができる。そうすれば、言葉から隔離され、言葉から取り残された人びとを、まるでなにもわかっていない動物かなにかのようにあしらっても文句一つ言われないのだ。

メルヴィルの「バートルビー」は、このような言葉の無力にさらされながらも、世間に対するつかの間の抵抗を試みた男の物語と見ることができる。バートルビーは、世間の文法にのっとった言葉ではなく、まさに「まっすぐ空に上って」いく一列の煙のような言葉を断続的に発することで、自分の雇用主である弁護士を翻弄させる。

弁護士とは、法律や法用語といった決まりごととしての言葉を駆使して論理を組み上げる専門家であり、この意味で、世間に通用する権力として言葉を利用する世間の代表者だ。バートルビーは弁護士に対して反逆を企てることによって、法用語のように定義づけされて、行為と緊密に結びついてはいない言葉がこの世界にあることを指し示す。かれの発する言葉は、かれの「いおうとしてることにぴたりとあてはまったためし」などなく、行為からすでに「ひとりの人間では到底跨ぎきれぬほど遠く離れてしま」っている。それは意図や行為から無限に隔たった、どこにも密着していない「ただの音にすぎない」。しかし、それは世間の手垢でまみれた、お互いを利用し合うためだけに作り上げられる以前に、かれ自身のためにとっておかれた言葉でもある。この言葉以前の言葉を他者が少しでも解釈しようとする途端に、それまで通用していたわれわれの言葉に憑依していた世間の権力は脱落し、人間の行為から遠く離れて、言葉は行き場を失ってしまう。というのも、どこにも密着していない、世間の合意に基づかない言葉が言葉としてあることを認めることは、自分たちがそれまで使っていた言葉が、それがほんとうは何を表すのか知らなくとも使えていたことの自供になるからだ。そしていままで慣れしたんできた言葉というものが、「言葉が指し示すことを全然知らない人が、全然知らぬことを表すための、ただの音」になり、われわれは言葉から取り残される。

だが、「ただの音」以外になにも残らないわけではない。煙のように茫漠とした「ただの音にすぎない」言葉の群れから立ち上がるのは、動物の境位にあえて踏みとどまるバートルビーという男のたたずまいが照射する、世間に根こぎにされる以前に「そこにいた」人間の尊厳そのものなのだ。