思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

アーミル・カーン監督の「地上の星たち」を観た。うーむいい映画だ・・・

 

俺は給与が振り込まれる口座とは別に投資用の口座を作り、この数ヶ月間は生活の必要に応じてそこから現金をおろしている。通常の預金なら、引き下ろした金額分だけ口座の残金は減るはずだが、評価された保有資産の金額は実際の入金額を上回っている。単純に考えれば、これまでに引き下ろした金額以上の利益を投資から得ているわけで、これはまったく驚くべきことだ。

そして父になる」を観た。福山雅治演じる父親(=野々宮良多)が、血のつながりよりも子供といっしょに過ごす時間の長さの方が大切だと気づいていく過程を描いた映画である。かれがカメラに収められた自分の寝姿の写真を見返して涙ぐむシーンではつられて泣きそうになった。

映画が反復して伝えるメッセージは明白で見誤りようがないように見える。つまり、血のつながりだけを重視して人を物のように扱うことは、人と人の心の通い合いと思いやりを無視した軽薄なことで、家族でともに遊び仲良く過ごす生活の蓄積に比較すれば、消し飛んでしまう程度の価値しかないということである。しかし、この映画を「生みの親より育ての親」ということわざの単なる焼き直しと見るには、良多の家族が斎木家に入っていくラストシーンはもう少し複雑で解釈の余地がある。

「陽のあたる場所」を観た。

 

ダンス・ウィズ・ウルブズ」を観た。白人の西部開拓に対していくぶん感情的なまでに批判的で、インディアン(スー族)にかなり寄り添った映画である。本作における西部劇的な要素は、壊滅した駐屯用砦に単身で乗りこむ主人公の心意気において、わずかにその残滓が認められる程度に過ぎない。インディアンとの交流が描かれる中盤以降は、その残り香すら消え失せて、フロンティア精神なるものへの嫌悪の視線は次第に高まり、アンチ西部劇的な雰囲気が充満することになる。

この映画が最大級の共感と慎重によって描くことを成し遂げている、インディアンとの交流における繊細さはあまりに稀有である。西部劇の遺産を批判的に受け継いだという意味では、「ノーカントリー」と同じジャンルに分類できるかもしれないが、西部劇の連なりに本作を仲間入りさせることは決してできない。

夜明け告げるルーのうた」「欲望という名の電車」「招かれざる客」を観た。

 

学生のときに原作を読んだときはさっぱり理解できなかったが、「欲望という名の電車」は、南北戦争後に土地も財産も失って凋落した南部名家の令嬢を描いた作品である。ブランチを演じるのはヴィヴィアン・リーであり、彼女は「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラを演じている。このこともあってか、「欲望という名の電車」を「風と共に去りぬ」と接続させて読み取ってみたくなる。