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思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

実際、われわれは人生を家畜のように虐げることで、そこから甘い汁を吸うことに期待しすぎている。その見こみは、人生が人格という一貫した原理と法則によって連続的に推移してゆき、会計帳簿のように計算可能で、適切な処理を施し、その処理に対して最適な分析を施すことで原理と法則から逸脱しない範囲で期待通りの成果を挙げられるという、実験物理学的な追求心への拘泥から派生したものである。

人生においてひとは自由であることはできない。しかし、この人生から自由を横取りすることは少なくともできるだろう。

俺は人生を水晶玉かなにかのように後生大事に抱えて生きている人間をよそ目に、自分が抱え持っているものに思うさま唾を吐きかけて、誰も見向きもしない薄汚いそれが他の誰でもないまさに俺のものだとうそぶきたい。それは、水晶玉と思われていたものが残らず血と糞にまみれた恥辱の汚物の塊だったということが暴露されるときだ。

企画部長に山登りを誘われ、同じ会社の人とともに来月八ヶ岳に登ることになっている。部長は俺が経験者であることを知っているので、サブリーダーに拝命された。もちろんリーダーは部長だ。

企画部長直属であり、俺と同期入社の女性がこの山登りにおける主役であることは明白で、そして俺がその使い走りであることも確定している。

 

だがな、山の中でも会社の上下関係がまるごと通用すると思うなよ。

タイ人のNが帰国するので、彼女と入れ替わりに日本へ長期研修に来たPとともに空港まで見送りに行った。ヘアアイロンが欲しいとPが言うので、帰りに買い物に付き合った。

 

Pは海外が初めてであり、大学時代に日本語を第二外国語として学んだことを除けば、日本のことをほとんど知らないという。来日してわずか一週間にも関わらず、彼女の適応力には驚かされる。彼女はわさびのたっぷり入った寿司を楽しめるし、つけ麺はもちろん、カツ丼や味噌汁も喜んで食べる。電車やバスに一人でも乗れるように、行き先を告げるアナウンスを理解しようと、日本語について俺にいろいろ尋ねてくる。Pの好奇心の旺盛さは4月にすでに帰国したKの比ではない。そもそもKは日本の食べ物ではつけ麺とスナック菓子以外はそれほど好きではなかった。

だが、彼女たちの共通点は辛いものが大好きだということだ。カツ丼やつけ麺に唐辛子をドバドバかけて、「う~ん、辛くないよ。辛いほうが好き」と言う。どういう味覚をしているのか・・・

 

タイのこと日本のこと、そしてタイ語について、彼女たちと英語でいろいろ話すのは楽しい。タイ人の女の子と一緒にいるのは山登りと同じくらい楽しい。

うまくすると5月末にタイにある子会社工場へ出張する機会を得る。新製品の量産ラインで使用するための治具が納入されて、使い物になることが実証されれば、使用方法を現地エンジニアへ伝えるとともに、製品の出来具合を確認する必要が出てくるからだ。

タイ人女性について

親しくしていたタイ人が今週末に帰国する。水族館や鎌倉に行ったり、二人そろって風邪を引いたときに気遣い合ったり、片思いの人が誰かを互いに吐露し合ったり、毎日lineで会話をしたり、短い期間だったが彼女は良い友人だった。彼女は社交性が高くて誰に対してもフレンドリーだったので、自分だけが特別親しい存在だとは思わないが、それでも俺にとっては、気兼ねなく振るまえる好ましい人には違いなかった。

 タイ人女性の屈託のない微笑みには本当に驚かされる。俺は他者と接するときに屈託のある人が好きだと自分で思っていたのだが、あの心をすっかり許したような柔らかな笑みを前にすると、自分が彼女たちの中で特別な地位を占めているような優雅な勘違いをついひととき味わってしまう。まったく馬鹿げたことなので、恥じ入りたくなるほどなのだが、この心理は一考するに値する。

 

彼女たちが男性に示すコケットリーは必ずしもそれほど洗練されているわけではない。人見知りをするし、饒舌でもないし、お世辞を言うわけでもない。ただ、人に対して物怖じせず、行動に迷いが見えないので、日本人女性と比較すると毅然として見える。たとえば人に話しかけるときや、相手の言うことを理解できず「あぁ?」と聞き返すとき、そしてひとりごつときのつぶやき一つでさえも、人の目を気にして恥じらいを見せることはない。自意識過剰のあまり、自分の行動に対して距離を置こうとする態度がないので、媚を見せつけられるような嫌味がまったくない。

 だが、彼女たちにコケットリーがないと見るのは誤りで、友好的に振るまうという点にかけては、そのコケットリーはバリエーションに富んでいるようだ。たとえばお菓子をくれる、lineでいっぱい話しかけてくる、自分の写真を送ってくる、ボディタッチをしてくる、かわいらしい冗談(※)を言ってくる。そのさり気なさが嫌味のなさと配合されることで、媚がさも媚でないような錯覚を誘い、純粋な友好から発されたものだという印象を与える。だから男は、それがコケットリーではなく、自分に対してだけ示されたものだと容易に勘違いして、内心は小躍りしてしまうのだ。

 

※彼女たちの冗談の一例を挙げよう。お菓子をくれるときに「お金払ってね!」と言う。こちらの仕事を手伝ってくれたときに「バーツ!」と手を差し出す。「夜の社員寮にはお化けが出るかもね!」と言う。すぐには冗談だと理解できないので、こちらがうまく返せた試しがないのだが、それにしてもかわいい。

山登りと女のことしか考えられないとか言いつつ、山に登ってるときでも女のこと考えてるし、山から下りても女のこと考えてるじゃねえか

哲学はクソの役にも立たねえ

企業勤めをしていて驚くのは、文学や哲学が社会に順応する上でまったくクソの役にも立たないどころか、むしろそこに書かれていることをいっさい忘れ去らないと、他者とのコミュニケーションにおいて重い足かせにしかならないということだ。

たとえば、俺はジェンダー異性愛というものへの不信感をジェンダー理論の書籍によって植えつけられたが、そこに書かれていること、たとえば性というものが決して生得的なものではなく、文化・メディア・行動様式・ホルモン・その他の要素といった無数のマトリックスの網の目から、社会との相互作用によって初めて浮上してくるような、構成的な規範に対する名称だということを俺が信じていたとして、それが職場の女の子と楽しく食事をしてうまく会話をこなしたり、女性にモテることにどう役立つというのだろうか?

俺は書籍に書かれていることがでっち上げのデタラメだとは思っていない。むしろ、俺は性というもの、少なくとも異性愛というものが社会構成的な観念だということを本当に信じてすらいる。だが、彼女たちの愛想笑いに対して自然に笑い返したり、いろいろ話をしたり、ときとして気立てよく気を遣ってやるときには、その信念は邪魔者にしかならない。もっというと、女の子と楽しくやっていくには哲学書に書かれていることがひとつ残らずデタラメだということを信じているふりをしていなければならないということだ。

これはジェンダーだけの話ではなくて、職務をこなして労働すること、企業勤めの社会人として生活を送ること全般に当てはまる。これは俺にとってはかなり屈辱的で、苛立ちすら感じることさえあるのだが、どうしようもない。