思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

原始仏典を現代語訳した岩波文庫の「真理のことば」「ブッダのことば」を読む。自身の日々の振るまいや友人・職場の同僚について思い巡らしつつ読み進めるが、どれも自分にとって苦い言葉ばかりで恥じ入りたくなる。なにも所持していないかのごとくに欲情を滅却し、克己精励して善く生きること、善き人や優れた人を師とし友とすること。ブッダの教えを謹厳に実行することのなんと貴重でかつ困難なことか。

貪欲に煩悩を追い求め、隣人に分け前を与えない吝嗇な人間のことを、賤しい汚れた存在だとブッダは厳しく非難するが、自分がブッダからボロクソに罵倒されているようにだんだん思えて、ひどく惨めな気分になってくる。

ハイエク「隷属への道」を読んだ。自由放任主義ではない、健全な競争に基づくデザインされた自由経済というものの考え方を知って感銘を受けた。ハイエクに心酔してしまいそうだ。

 

古典を読むと、鬱屈した不全感、漠然とした無力感とだけしか思っていなかったものの裏側に、実は秘密の窓が潜んでいたことを見つける。そこに目をやると、思っても観なかったような広大無辺の世界がのぞかれる。裏窓の向こうでは、自分が押しこめられたこちら側の世界とはまったく別の自然法則のもとで進化した、まったく別の種類の人間たちが戯れており、こちらの視線に気づくと、かれらは、まるで新種の哺乳類でも見つけたかのように好奇の目でじっと見つめ返してくる。そのとき、俺は慣れ親しんでいた大気からゆっくりと遊離して心だけを向こう側へともっていき、かれらの目をもって自分自身を眺めわたすことができるようになる気がするのだ。

品質工学の困難

品質工学が実際のところメーカーの現場でほとんど適用されていないのは、いくつか複合的な理由が考えられると思うが、そのひとつとして、品質工学の分析手法に内在する困難が挙げられる。

品質工学は、ある製品や機能の特性を示す平均値を目標に近づけることではなく、まず各々の特性値の平均からの逸脱、つまりばらつきを支配する因子を特定し、これを制御することでばらつきを抑制することを目指す。パラメータ設計によって平均値を目標特性に近づけるのは、ばらつきをなくすことよりも容易いが、目標値を達成したあとで誤差や寸法公差などに由来するばらつき自体をなくすのは、しばしば非常に難しいからだ。

特性値に影響を与えて平均からのずれを呼び起こすのは、使用環境や劣化といった、必ずしも正規分布にしたがわないノイズである。したがって、ばらつきを抑えるということは、ある入力に対して、確実で緊密に結びついている出力を保証することに他ならない。品質工学では、平均値だけではなく、誤差もまた設計の対象であり操作可能な統計量であるとみなす。出力の確実性を乱すノイズを積極的に取り入れた実験をおこなうことで、パラメータに対する特性値の依存性だけでなく、各パラメータに対する特性値のばらつきの依存性もまた調査するのである。

実験の際には、特性に対して影響力の大きい誤差要因を取り上げて、それを制御可能な形であらかじめ実験に組みこんでおく必要があろう。だが、品質工学では、入力と出力の確実性を乱すノイズの主要因がすでに判明していることが前提とされており、それを突き止めるヒントはなにも与えてくれない。どのような誤差要因を選別し、どれくらいノイズを盛りこむかは実験者が決めなければいけない。ここに品質工学の弱点がある。

パラメータを変えたときの特性値のばらつきを定量的に評価することによって、一見すると普遍的なロバストネスを追求できるように思われる。だが、実験計画において、それが主要因であるかも定かでない、ある特定のノイズだけを取り入れている以上、その選択がパラメータ依存性に影響を与えないという保証はいっさいない。あるパラメータが特定のノイズに対して強靭である一方で、別の種類のノイズに対しては脆弱であるというのはいかにもありそうなことだが、品質工学はこの可能性を検証するどころか、いっさい無視した地点から分析を始めようとするのである。

アベル・ボナール「友情論」を読んだ。

 

ドゥ・ザ・ライト・シング」を観た。この映画は1992年のロサンゼルス暴動を彷彿とさせるが、映画が公開されたのは1989年である。アメリ市民社会のうねりと矛盾を厳しく問う作品だが、ブルックリンの猥雑とした雰囲気を伝える罵倒の応酬がたいへん愉快で、決して深刻ぶった悲愴な社会派映画というわけではない。

 

アメリカの映画では、しばしば新旧の移民・階級間の対立が主題となる。「ドゥ・ザ・ライト・シング」もその例外ではなく、ここではブルックリンにおける黒人とイタリア系・韓国系移民の対立が描かれている。黒人問題を取り上げたものでは、「アラバマ物語」「招かれざる客」「夜の大捜査線」といった古典的名作が浮かぶ。それ以外にも、「ウエストサイド物語」ではロサンゼルスにおけるポーランド系移民とプエルトリコ系移民、「欲望という名の電車」ではニューオーリンズにおけるポーランド系移民と南部の旧地主階級、「グレート・ギャツビー」「陽のあたる場所」では上流階級と中西部の貧民の対立が裏側にある。少し趣向がちがうが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ゴッドファーザー」もまた、移民同士の軋轢や対立という背景があって舞台が成立する映画である。

未知との遭遇」「アメリカン・グラフィティ」と「嵐ヶ丘」(1992年版)を観た。

 

未知との遭遇」は予想上にひどかった。宇宙人による地球侵略を描いた、典型的なSFに対するアンチテーゼとして創作されたものなのか? 映画のタイトル以上のメッセージをこの映画から読み取ることはできない。つまり、タイトルだけですでに終わっており、完結している。じゃあわざわざ観なくてよくね?

それとも、家電や道具が勝手に動いてこええよ、すげえ!とか、UFOがスケール感あって迫力すげえ!とか、そういう感じで喜べばいいのか?・・・きついわー。単に俺の好みでなかったというだけの問題なのだが、ひざひざに不愉快な映画を観た。

 

 

山行中の食事について。俺は今まで、フリーズドライの親子丼や麻婆丼アルファ米をコッヘルに一緒くたにぶちこみ、水を入れて沸かしていた。この調理方法だと、どうしても丼の具が米と完全に混ざりあって、ゲテモノのおかゆのようになってしまう。沸かしたばかりのおかゆもどきはたいへん熱いので、食べるのに時間がかかるばかりでなく、食感はべちょべちょにして味は単調で、なんの苦行なのかと感じるときもあるほどだ。

そうではなく、あらかじめただのお湯を準備して、アルファ米と丼を別々に戻せばちゃんと美味しく食べられるはずなのだ。ストレスを抱え込まずに山行を継続するために、山での食生活はとても大事だというのに、俺は今までなぜこのことに気づかなかったのか・・・

 

そんなことよりスイス人のクライマーNina Caprezがとても可愛い。