思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

「恐怖の報酬」を観た。舞台は第二次大戦後間もない時期のベネズエラだろうか。富を独占するアメリカ資本の石油会社、低賃金で危険作業を強いられる日雇い労働者。石油会社の膝下の街に現地民と混ざって暮らすのは。ユダヤ系ドイツ人、イタリア人、あるいはフランス人(主人公はコルシカ島出身)であり、いずれにせよ本国に帰ることのできない事情を抱えた周縁的な欧州系移民である。この映画では、石油会社の管理職であるアメリカ人と「かつていっしょに仕事をしていた」というイタリア系移民が、ニトログリセリンの運送という命がけの日雇いにまで身を持ち崩し、報酬を受け取ることもなく道半ばで死に絶えるさまを描いている。帝国主義を掲げて覇権を争ってきた欧州が、第二次大戦が終わり、膨張したアメリカの酷烈な資本主義に圧倒されて、いまやかしずく格好となったことを示唆している。

ボルダリングについて。いつも通っているジムとは別のジムに行き、主に3つの2級課題をひたすらトライしていた。一つ目はなんとか完登したが、二つ目は残り一手がどうしても取れずに登れなかった。三つ目はルーフ課題で、ホールドを取りに行くときにどうしても足が切れてしまう箇所でつまづいて登りきれなかった。とはいえ、何回か挑戦すれば近い内に登れるような気がする。

このジムは明らかに2級のグレードが甘く、3級とそれほど変わらないように思える。だから2級を登れてもあまり喜びがなく、登れないことの落胆のほうが大きい。

職場の歓送迎会で4000円も5000円も取るのやめてくれないかな。たとえ半年に一回の頻度であっても、価値がないと感じるものに金を出すことは耐えがたい。次回からは問答無用で欠席しよう。

 

ときどき読むブログの筆者は三島由紀夫寺山修司太宰治がお気に入りらしい。友人と文学の話をときどきするらしく、それがたいへんうらやましい。だが実際のところ、カミュやフォークナーについて語り合える友人がいたとして、俺は文学についてかれと語ろうとするたびに苛立ちを隠せなくなることだろう。

 

 

思い出すのは、私という存在がまったく社会構成的なもので、その内部に何がしかの本質を見出そうとするならば、私はありもせぬ現前性に縛りつけられるであろうという、おぼろげな警戒心である。すると、これを手綱として、ちょうど院試の時期に降臨した、形而上学的な使命感、つまり選択肢の先にではなく、選ぶという行為そのものに強勢を置こうとする、ジャン・ジュネ的な反骨も想起の糸として引き出されてくることに、私は驚く。

焼きこがすような焦燥が、かなたの銀河を望遠鏡でのぞき見るような距離にまで遠く隔たったいま、俺は過去の洞察がたたえる、なかば悲痛に満ちた確信的な傲岸さに背後から撃ち抜かれる思いである。

山道具の買い物ついでに、いつも通っているところは別のボルダリングジムに行ってきた。4級を8本ほど、3級を5本ほど登ることができた。腕力やパワーにはまだまだ余裕があったが、指の皮が痛むために2時間半程度で切り上げて帰ってきた。こういうときはテーピング用テープを指に巻くのがよいのだろうか。

 

レーニングが一日2時間とかぬるいんだよな。本気で上達したかったら4,5時間はすべきだろう。

 

 

職場の歓送迎会で4000円も5000円も取るのやめてくれないかな。たとえ半年に一回の頻度であっても、価値がないと感じるものに金を出すことは耐えがたい。次以降は問答無用で欠席しよう。