思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

ウォートンの「エイジ・オブ・イノセンス」をおそるおそる読み始める。以前に数ページ読みかけたところで、あまりに難儀な文章に面食らって早々に投げ出したのだったが、いつまでも逃げ回るわけにも行かない。

ということで再度読み始める。ウォートンは、虚栄心のわずかなおののき、その徴候のひとつさえも見逃さず、心理をえぐり出し徹底的に解剖するに値する病理を見てとる。ニューヨーク上流階級のあるひとりの男の状況と心理を描出する、監察医のように研ぎ澄まされた観察力はまったくただごとではなく、彫琢された分析的文章は、そのひとつひとつがフランスのモラリストを思わせる箴言の域にまで達している。その高度な論理ゆえに、正直いって、ほとんど理解がおよばない心理描写もあり、圧倒される思いだ。いくぶん韜晦な論理を好む、ジャン・ジュネのような小説のほうがまだしも馴染みやすい。「エイジ・オブ・イノセンス」は手強い・・・

アマルティア・セン「貧困と飢饉」を読んだ。本書で展開されている、飢饉の原因分析における権原アプローチは、開発経済学の新たな地平を切り開く端緒となったという。ある社会における貧困をどのように指標として表すか、食料供給量が不足していなくとも飢饉は起こりうるか、そのメカニズムはどのようなものか、そして市場原理によって貧困が解決できないのはなぜか、といった疑問に対して明晰な分析がなされており、たいへん興味深い。

ボルダリングについて。スラブの1級を登ることができた。あまりうれしくない。というのも、ジムにある3級課題をおおむね登れたのだが、必ず再登ができるというわけでもなく、くり返し挑戦してもできたりできなかったりするのだ。これはちょうど一年前に4級課題を登り始めたころの状態と似ている。当時はこのスランプが非常に長引き、けっきょく半年以上上達がなかったように思う。

もし今回も同じようなスランプならば、頻繁にジムへ行っても一進一退をくり返すだけで2級課題には程遠い。キャンパスボードやベンチプレスで地道にトレーニングしたほうがいいのかもしれない。

 

指先の表皮が剥けて、親指をのぞいて指紋がなくなってしまった。汗なのか体液なのか知らないが、皮が剥けたところからつねに液体がにじみ出ていて、このせいでよく滑る。

カーリダーサ「シャクンタラー姫」を読んだ。

 

働くことは――少なくとも会社で総合職として働くということは――、業務の遂行者として自分自身を見立てる役者と、役者が演じようとしてはやり損ない続ける人物のあいだの誤差の計量に要約される。われわれは、絶えず関数を解析的に微分していくかのように、毎日毎週のサイクルをこの差分を埋める作業についやす。しかし、つまづき続けることが運命づけられたこの演技とともに、次第に、失われていくものがある・・・

まだ読めていない海外文学

最近はあまり本を読めていない。レマルク西部戦線異状なし」、キケロ「友情について」を読んだ。

 

ぜひとも読み終わりたい未読の小説は、なんとも俺を及び腰にさせるものばかりが残っていて、次に手に取る本を悩ませている。たとえば、手元にあるエミール・ゾラ「ジェルミナール」とフィールディング「トム・ジョウンズ」の文庫本は、旧仮名遣いや旧字体で書かれており、読み進めるのにひどく手間がかかる。次に挙げるのは、苦労して格安の中古本を揃えたはいいものの、かなりの長編なので読み始める踏ん切りがいまだにつかない小説である。デーブリーンベルリン・アレクサンダー広場」、ユージェニデス「ミドルセックス」、ソール・ベロー「ハーツォグ」「フンボルトの贈り物」、ロレンス「息子と恋人」、エリオット「ミドルマーチ」、サッカリー「虚栄の市」、ローザ「大いなる奥地」、ズヴェーヴォ「ゼーノの苦悶」、プルースト失われた時を求めて」、そしてモンテーニュ「エセー」だ。また、それほど長編ではないだろうが、いまいち内容にそそられないために敬遠している小説がある。ゴンチャロフオブローモフ」、ウォートン「エイジ・オブ・イノセンス」、ヘミングウェイ誰がために鐘は鳴る」がそうだ。これらとは別に、ジョーゼフ・ヘラー「キャッチ=22」、ジョイスユリシーズ」、ナボコフ「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」を始めとして、予想される内容の晦渋さに恐れをなして読むことがはばかられる小説も、無数の哲学書とともに本棚に眠っている。そして最後に、まだ手に入っていないが読みたい小説として、レッシング「黄金のノート」、ベケット「名づけえぬもの」、ウィラ・キャザー「大司教に死来る」、ドライサー「アメリカの悲劇」、コンラッド「ノストローモ」、マルカム・ラウリー「火山の下で」、ヘンリー・ジェイムズ「大使たち」「ある婦人の肖像」があるものの、これらもまた実に手強い。