E.M.シオラン「歴史とユートピア」を読んだ。奇縁なことに、俺がときどき訪問しているブログの執筆者もシオランの紹介本をつい最近に読んでかれの思想にいたく共感したそうだ。このブログ主は三島由紀夫が好みの作家だということで、もし私が彼女と話す機会があったとして、余計なお世話かもしれないが、トーマス・マンやスタンダールを薦めることだろう。そして、もしそんな定番の古典はすでに読んだというのであれば、あるいはマルキ・ド・サドやジャン・ジュネさえ紹介するかもしれない。
それはそうとして、シオランは以前に俺が日記で書いたのと似たようなことを主張しているのがたいへん興味深い。
俺は人生を水晶玉かなにかのように後生大事に抱えて生きている人間をよそ目に、自分が抱え持っているものに思うさま唾を吐きかけて、誰も見向きもしない薄汚いそれが他の誰でもないまさに俺のものだとうそぶきたい。それは、水晶玉と思われていたものが残らず血と糞にまみれた恥辱の汚物の塊だったということが暴露されるときだ。
これが2017年5月24日に記された俺の日記からの抜粋。そして、以下が「歴史とユートピア」第Ⅳ章の一節。
奴らはまるで真理専用の人間みたいに、神慮によって真理を供給されてでもいるかのように、ふんぞり返っているではないか。――だが真理は彼らの領地であろうはずがない。そこで私たちは、彼らから真理の請求権を剥奪してやるために、お前たちが真理を掴んだと思った時、掴んだのはじつはただの作りものなのだ、と説得してやる。(中略)その結果、私たちは心おきなく彼らを苦しめることができ、彼らに私たちの麻痺の病原菌を接種してやって、私たちと同じくらい傷つきやすく、同じくらい不幸な人間にしてしまうこともできる。