思ったこと、考えたこと。

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象形文字としてのエクリチュール―われわれが政治を語るとき―

ある主張なり見解なりを述べたとして、あらゆる他者の解釈に対して、それが他者の解釈であるという理由だけで誤解と誤読に満ちていると無条件に思い込む、あるいはたとえそこまで極端ではないにしても、自分の所信がそれと対立する所信によって相対化され並列されうるという事実を拒みつづける感覚は身近なものではある。前者の行きすぎた場合、エクリチュールが他者にとっても、むしろ自分自身にとっても根源的に理解不可能であるような象形文字としての役割を強く嘱託されることがある。

 

政治や社会経済に関する私見を述べるとき、われわれは本当のところ、現状の自分が持っている以上の知識や文献を踏まえた上で、述べようとしている主張を検証したり前提を論理的に明らかにしようとするほど政治や経済にそこまで興味をもっていない。そんな面倒くさいことをしなくとも、原則や論理とは関わりなく、そこで語られたことは依然として「われわれにとって」正しいのであり、自分が主張していることを別の側面から検証したり、前提としている原則を突き詰めていったときに導かれる事態もまた正当なものなのか吟味することは、私見を述べるときには不要で余計なことで、ときとして主張そのものに対して真っ向から逆らい傷つける有害なもののようにさえ感じられる。

このとき、それは象形文字として嘱託されたエクリチュールと典型的に呼ばれるものになる。なぜなら、そこで語られたことは、論理的な前提を明らかにすることを拒むことによって、議論を成立させる統辞的な規則へ組み込まれることなく、語る当人にとっての「語られなかったこと」を表象し、かたどる役務を担わされるからである。これが象形文字と表した意味である。そして、それはしばしばタイピングされた文字の連なりとして表されると同時に、口から発されて意味を凝結させることなく大気中に霧散していく当人の語りそのものであり、にも関わらずそれが文字の連なりとして発されるとき、「語られなかったこと」が時間をさかのぼって偽造される。これがエクリチュールと表した意味である。

さて、われわれがこの象形文字としてのエクリチュールをひり出すとき、文字はもはや字義によって語られていることを語っていない。字義とはエクリチュール依代であり、「語られなかったこと」の幽霊が文字にとり憑いている。それは端的に言うならば、語るわれわれが、語らないことによって意味しようとする「語ろうとすること」、いまだ語られぬわれわれ自身そのものなのだ。