思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

スタヴローギン的な

以下の文章は、メルヴィルバートルビー」を読んで、ある人間(バートルビー)の発話をとりまく状況について書き留めたかつての思索である。

かれの発話が、まさに発話されることで、解釈を呼びこむひとつの位相をみずから選びとってしまうことを、かれ自身は押しとどめることができない。というのも、発話者の内面は、発話の前提とされ、応答の際の手引きとしてひんぱんに参照される役目を負うために、人と人のあいだのコミュニケーションにおいて仮構に設置された、その人間を不可分なく説明するひとつの本質的契機、あるいはそのときどきに応じた、人格の代理物としての地位を占めているからである。

この洞察は、心というものについての不可知主義を通り越して、自分が心で信じていることすら信じない、スタヴローギン的な独我論に行き着こうとする傾斜に満ちみちている。俺は、他者に心というものがあるとして、言葉や態度はそれを写し取ったものであり、会話は心を互いに解き明かしていく過程であるとは言わない。そうではなく、まず、たがいに意味が不明の独語をつぶやく二人の人間がいて、双方が相手の独り言を解釈しようとするとき、その言葉を生み出した心と呼ばれるものがあったにちがいないと、過去を遡って説明づけられると言いたいのだ。このちがいは微妙だが、前者の見方では、心が言葉の厳密な対応物であると積極的にみなそうとするのに対して、後者の見方では、どう好意的に見積もっても、心というものが、発話についての解釈に対応する仮設物としかみなせないという点で決定的に異なる。

だから、これはいかにも独我論的なのだが、だからといって、心が実在するとナイーブに信じこむほど他人に興味をいだいて生きているわけではないのだ。