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思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

「三四郎」の美禰子について

俺が以前食事に誘ってみたという職場の先輩は、「三四郎」に登場する美禰子にとてもよく似ている。彼女は美禰子ほどプライドが高くはないようだし、明敏でもなさそうだ。美貌もそれほど群を抜いているわけではないかもしれない。だが、コケットリーを振りまいて男を喜ばせ、眩惑し、ときとして無性に苛立たせる、古典小説に出てくるような女性がこうして現実にいるということは、俺にとって新鮮な驚きだった。俺は彼女の性向をまるで知らなかったわけではないが、見ていてなにかいかがわしさを感じさせるほどの媚びを男に対して安売りするのを、あれほどいとわない女性だとは思わなかったのだ。

夏目漱石ならば、あのような女性を「自ら識らざる偽善者」(アンコンシャス・ヒポクリット)と評するのだろう。自分の行為を自分で認識していないから、媚態を操って平気で男を翻弄することもできるのにちがいない、という考え方である。だが、「自ら識らざる偽善者」という言葉を男性が口にすることによって、自分の行為が何を意味しているのか「識っている」われわれ男性が正統であるとされ、自分の行為が何を意味しているのか「識らない」女性は道徳的に劣った存在にされてしまう。そして、他人の行為にまなざしを注ぎ、分析し、解釈する観察者として男性を想定するとき、女性はつねに解釈される側、つまり、自分の行為が何を意味しているのか自分で把握することが許されない位置に追いこまれる。それは、女性のコケットリーをコケットリーとして受け取って、喜び、期待し、落ちこみ、苛立つのがつねに男性の側だからだ。だから、「自ら識らざる偽善者」という女性への評言は、男性の視線に偏りすぎているというよりも、むしろ自分が男性であるという表明のトートロジーにしかなっていない。

とはいえ、漱石は美禰子を終始観察される側として描いているわけではなく、逆に、男性の言葉によってついに語られることのない美禰子の真意が、「三四郎」の主題を裏側から照らしてもいるのである。男性の視線で美禰子を観察することをやめて、われわれが美禰子自身であろうとするとき、「自ら識らざる偽善者」という分析は後退させられる。

だが、たとえそうだとしても、先輩の女性と俺の関係がちょうど美禰子と三四郎のそれに似ていることは否定しようもない。彼女の生きる世界は俺が生きる世界とあまりにかけ離れているので、彼女の存在はつねに俺にとってひとつの大きな謎となるのである。