思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

身体-機構-精神

俺という外壁に対するあらゆる他者の視線は、外壁の裏側から密かに入りこんでその内容物を既知のものにあらかじめすり替えておこうとする野心につねに満ちみちているので、俺の肉の内部はその視線が張りめぐらされた空洞となり、操り人形のように動きはこわばり硬直するばかりである。この機構を身体と呼び、この意味において身体とはつねに政治的にゆがめられ変形されている。これに関連して、メルヴィルの「バートルビー」に即して発話行為――これもまた肉と同類の外壁のひとつである――に置き換えて考えてみると次のように表現される。

解釈の不確定性において、発話の抑揚や(発話を受け取る)解釈者の内面のゆらぎが反映された、応答可能性への呼び声は、語り手(ここでいう語り手とは解釈者のことを指す)をときとして憤激や歩み寄り、あるいは深い憐れみへ誘う。そうした徴候的読解のすべては、バートルビーの発話内容それ自体を越えて、かれを発話行為へと導いたものが何であるかを説明することで、それを補完しようとする。のみならず、みずからの意味を凝固させることで、逆に、時間をさかのぼって、好み、義務、不可能といった色合いのもとにバートルビーの内面を確定づけようと狙いすます、静かな包囲物ともなるのである。