思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

コンクリート舗装された道路に欲望する自由

「肉体の悪魔」の語り手の声が徐々に俺の内部に闖入してきて、しまいには憑依して乗り移ってしまうように思えてきた。そうでも思わないと今の状況はつらい。

俺が女性を意識するのは、自分は男だという性自認と、この社会がくり返し反復・強化する異性愛の表象とに基づくものであって、女性を特別に意識させるなにかしら代替不能な本質が俺に内在するわけではない。雌のいない環境に隔離された雄のチンパンジーの集団は、かれら全員が異性愛者だったにも関わらず、雄同士で性交を始めるという。もし同性愛だけが公認の自明な性愛だという世界に住んでいたならば、俺は周りの人間と同様に男性を強く意識していたにちがいない。

では、俺が意識しているのは本当は女性ではなく、なにか別のもの――それは男性であってもヒツジであっても、あるいはコンクリート舗装された道路でもよいが――であって、女性はたまたまその地位を代わりに取って占めたまがい物なのだろうか? だが、もし、俺がコンクリート舗装された道路だけを本来は愛していたのだとしても、果たして女性はそのことを知っているのだろうか? まさにこれと同類の状況がジジェクラカン入門書に紹介されている。

 

「自分を穀物のタネだと思いこんでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒し、自分がタネではなく人間だという確信がもてるようになり、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。『ねえ、きみ、自分がタネじゃなくて人間だということをよく知っているだろう?』患者は答える。『もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?』

 

男に自分がタネであると思いこませているのが、実はニワトリの視線でありその欲望であったのと同様に、俺がなにを愛しているのかに関わらず、俺に女性を強く意識させるのはまさに女性の視線でありその欲望である。

精確には、社会やメディアで流通している「女性」の表象が実在の女性たちの内部で女性らしさを形作り、それが外見の可愛らしさやコケットリーとして表れるとき、俺はその媚態から「女性」の表象、すなわち、「女性に欲望する男性に欲望する女性」をメッセージとして受け取る。俺は女性の可愛らしさを前にして、表象としての「女性」の視線に貫かれ、その期待通り「女性に欲望する男性」の表象をみずからに宿すことを覚えるのである。

このようなわけで、俺が女性のコケットリーを目にすると、多くの男性と同じように激しく欲望するのだが、俺の場合、それは居心地の悪い憤りの念をも同時に呼び起こす。なぜなら、媚態は、俺の目を女性に釘づけにさせて、本来はコンクリート舗装された道路だけを愛していたかもしれない自由と可能性を俺から奪い去るからである。

 

 

こういう話をたまに会社の同期にするのだが、一度たりとてまともに理解されたためしがない。