思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

国際学会での経験、研究室の教授からの忠告、およびたまたま読む機会を得たアーレントに関する新書が自分の中で複雑に配合され、人間は何よりもまず政治的な動物であるということにつくづく気づかされた一週間だった。ここでいう政治性というのは、おそらくは、一個の人間が社会化を強制される暴力や、他者の無理解を恐れて、あまりに実存的すぎる独我論に逃げこもうとする誘惑をたえず感じながら、それでも個人主義の誘惑を拒否しようとする態度によって構成されていると思うのである。

 

夏目漱石以来、日本近代文学は一貫して、自我の内部にひそむ他者への屈託を、他者自身めがけていかに昇華させるかということに血道が上げられてきたと俺は考えている。その意味で、俺もまたひとりの日本人だったといえる。ただし俺の場合、西欧の実存哲学が奇妙な具合に混入することで、屈託はあくまで俺自身の内部で俺自身へと昇華されてきたのだ。

 

私は義務を学ばねばならないと思う。他者に対する義務という簡単な言葉で決着をつけようとは思わない。これに関して、過去に書き留めた文章を引用する必要があるように思われる。

 

発話や身振り、応答可能性へのとりくみはつねに独我論的になされる。自分の応答がそれとして受け取られることを確信することはできないし、相手の応答をそれとして受け止めることもまたできないかもしれない。この意味で、応答とは単なる他者への返事や返書ではありえない。応答とは声を聞くことだ。それも声をひとつの感覚として、身振りそれ自体を神経の張りめぐらされた器官に仕立て上げることだ。そして、ただの残響ではなく、強度のあるはね返り、歪められ変形させられた反射音を予期しながら声を発するとき、人は楔を打ちこむかのように初めて外部との関係に独自の世界を打ちたてる。ただひとりの海をかき分けるようにして応答はなされる。