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思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

カミュの運命概念とモラリズムについて

以下の文章は、「シーシュポスの神話」の読解を試みて、俺が大学一年の頃に精神を振り絞るかのようにして書いたものの一部である。

 

  2008年に、日本のある女子高生二人が飛び降り自殺した。このような遺書を残していたという。「死ぬ理由もないけど生きている理由もない」。カミュに言わせるならば、「生きる理由が無い」という唯一の恐ろしい未来を彼女らは見わけ(p.97)たがゆえに、そのなかへと身を投じて(p.97)いったということになる。つまり、人生に生きる意義がないということで死を望むことによって、逆に人生に意義があることを追認してしまっている。人生には生きる理由があるという世界と対峙する自らを否定するのと、世界に生きる理由があるという運命は全く同時的だからだ。なかったはずの死ぬ理由が生きる理由にたちまち反転してしまう生とはなんという不幸だろうか。

 

自分で言うのもなんだが、この論理にはなにか独特の極限的な思考が表れている。上の文章は、以下のように主張しているわけである。つまり、「人生に生きる理由がないならば、自殺する」という命題の対偶は、「自殺しないならば、人生に生きる理由がある」であり、この命題の真であることが一人の人間の死によって証明されるとき、その人間は生きる理由の存在も同時に証明することになる。「なかったはずの死ぬ理由が生きる理由にたちまち反転してしまう」とは、このことを指している。しかしこの論法は、自殺した人間が、真の命題を体現するもうひとつの生を持ちあわせていない限り正しくない。命題を証明するために失われた生と、証明された命題のもとに照らしだされた生という複数の生を接合するために導入された概念こそが、カミュの言う「運命」である。

 

人間の行為は、その人間に固有の全的な生の運動と法則、すなわち運命を記述する、あるひとつの論証された命題につねに置き換えられ得るものであり、また、そうでなければならぬという執念ゆえに、これを極限的であると俺は表現する。人生がそこにおいて実践される、生きられた生が、形而上の生に鋭く先取りされた、この変質したカント主義は、本来のカント的な普遍性へと向かうことはせず、個々の人間の魂に呼びかけるのみである。「お前の生を貫く命題を相矛盾させることなく、お前自身と一致させよ」と。「追放と王国」以前の前期のカミュモラリストと呼ばれるのは、この根源の思想ゆえである。そしてかれがキリスト教を捨てなかったのも。