思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

就活生と人生

学会から帰り、ネクタイもひとりで満足に結べないまま、本格的な就活を控えた深夜の心境を精確に述べることは難しい。かつて精神を削り、すべてを打ち捨てて読みふけってきた文学も哲学もひとつの例外を残してまったく出る幕がない。思い出すのは、私という存在がまったく社会構成的なもので、その内部に何がしかの本質を見出そうとするならば、私はありもせぬ現前性に縛りつけられるであろうという、おぼろげな警戒心である。すると、これを手綱として、ちょうど院試の時期に降臨した、形而上学的な使命感、つまり選択肢の先にではなく、選ぶという行為そのものに強勢を置こうとする、ジャン・ジュネ的な反骨も想起の糸として引き出されてくることに、私は驚く。

人生においてひとは自由であることはできない。しかし、この人生から自由を横取りすることは少なくともできるだろう。その指針としてなにがしかのことを挙げるとするならば、それは第一に表象を憎むことだ。そして第二に、これは第一をより精確に言い換えたものだが、恋人を見るときのような近視眼を棄て、異邦人としてこの人生を眺めわたすことだ。

 

 

実際、われわれは人生を家畜のように虐げることで、そこから甘い汁を吸うことに期待しすぎている。その見こみは、人生が人格という一貫した原理と法則によって連続的に推移してゆき、会計帳簿のように計算可能で、適切な処理を施し、その処理に対して最適な分析を施すことで原理と法則から逸脱しない範囲で期待通りの成果を挙げられるという、実験物理学的な追求心への拘泥から派生したものである。

 

説明可能なのは人生全体についてというよりも、むしろ、それを導出する公理としての人格についてであるべきだという信念が、自身が差し向ける行為・態度の倫理的な不可視性は、躊躇のない言葉の羅列によって疑念の余地なく説明されなければならないという強迫観念を生み出す。説明とは、何よりもまず自身に対してなされるものであり、法則はここからパフォーマティブに始まる。政治的な転向が困難であるのは、他者に対する見栄からだけではない。それは説明の挫折であり、人生の一貫性を放擲する行為に等しいからである。しかし、そんなものは始めからなかったのだ。