思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

「女の平和」を読んだ。・・・・俺は何も言うまい

 

フランスのあのテロ事件を受けて、表現および言論の自由を守る立場からテロや過激派を批判するのは、あまりに筋が悪いだけでなく、対立を煽ることにしかなっていないというのは、事件の発端から鑑みてこれ以上ない皮肉ではなかろうか。

筋が悪いというのは、言論の自由憲法や個人の信念のなかにしか存在しないようなひとつの理念であって、現実ではそれにともなう責任や報復を無視することができないからだ。差別的発言をすれば批判されたり人格を疑われたりするし、ハーケンクロイツを不用意に使用すればユダヤ人団体から非難されるし、ムハンマドを侮辱する言説をくり返せば過激派に惨殺される。表現の自由は、こうした数えきれない掣肘の結果としてわれわれの手元に残った、われわれ自身がその余波を予測し、つけを払うことが可能であるような言説の総体のことであって、決してあらゆる言説を手放しで全面的に保護することを主張するものではない。野放しにされている無数の差別表現は表現の自由の賜物であるが、この場合は、表現の自由が風刺画家を抹殺したのだ。

第二に、対立を煽るということの意味は、言論の自由がまさに西欧的な価値観の共有を前提としているがゆえに、これをもって新聞社の肩入れをすることが西欧対イスラムの二項対立を導入することにしかなっていないということである。ある者にとっては痛快な風刺である一方で、別の者にとっては自分の所属集団に対する許しがたい侮辱に映るものに対して、「これはただの風刺なんです」と弁護することは、ひとつの価値観を選びとってもう片方をないがしろにする意味しかもっていない。現代の先進諸国において、言論の自由が個々人の意識としても法制度としても、緩やかにではあるが徐々に後退してきていることは、言論の自由が決して至上の価値をもっているわけではないということを示している。そして、これはあるエスニック・宗教集団が掲げる単一の価値観についても言えることだ。

したがって結論はこうだ。テロリズムという一方的な暴力に対して、言論の自由という地位のあやふやな価値をもって対抗しようとすることは、不当な暴力への真摯な批判さえあいまいなものにしてしまう可能性がある。このことは、ここ

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で述べられているような、日本における言論をめぐる状況や報道の自由の達成度とはまったく無関係と言わなければならない。今回の事件を「言論の自由への挑戦」と位置づけることはたしかに甘美的ではあるが、それが暴力による脅しへ異議申し立てする唯一の方法だとは思わない。