思ったこと、考えたこと。

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アエネーイスにおける聖性の凋落

アエネーイス」の続きを読む。ホメロスギリシャ悲劇と引き比べてみたとき、この叙事詩の背後にひそむ思想のある種の不明瞭さによって読者はいくつもの疑問と出くわすことになる。第一に、ギリシアの文学と芸術の伝統を(たとえその表層だけではあっても)色濃く引き継ぎながら、なぜ古代ローマ人はトロイアを自らの祖と見立てたのだろうか。

次に、神々の定める運命というものの捉え方が古代ギリシアと決定的に異なるようにみえる点についてである。アイスキュロスの「アガメムノン」やエウリピデスの「メディア」では、贖罪と復讐が渾然一体となった呪いの連環が神話上の人物の狂熱を生み出している。かれらの激情と憤怒は運命の大きな輪のもとにあるわけだが、半神半人のかれらは運命に無自覚でありながら、避けることの許されない運命の車輪の一員に名を連ねようとみずから飛びこんでゆく者でもあるのである。

これを「アエネーイス」と比較してみると差異は浮き彫りとなる。ルトゥリ人の王トゥルヌスの「戦争を求める罪深き狂気、加えて、怒り」とは、かれ自身の半神半人なる性質から発されたものではなく、復讐女神に吹きこまれたまったく発作的なものだ。こうなるとアエネーアスのローマ建設の栄光を彩るための神々の陰謀の犠牲という印象がどうしても強くなる。それだけでなく、復讐女神にこの陰謀を命じた女神ユーノでさえ狂気を偶然によるものとみなしている。つまりここでは、個人の自律した意思がもたらす冷静さ・沈着さを奪い、道義に反することもしでかす熱情を代わりに外から与えるものとして、運命や神々の力が対置されている。そしてそれにより、ギリシア悲劇に見られるような、神が宿ったかのような激情の降臨は頽落させられている。実際、アエネーアスらがたびたび執り行う犠牲獣の儀式はまったく形式的なもので、何に対する贖いなのか、贖物の必然性が語られることはいっさいない。贖罪がさらなる別の贖罪をうながすような、容赦ない呪いという側面は人間と神々を結ぶ絆からすでに抜け落ちているのである。

このことはアエネーアスとオデュッセウスの困難に立ち向かう姿と、彼らに対する神々の態度のちがいに端的に表れているように思われる。が、これについてはまた別の機会に書く。