思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

文字の文化と語る欲望

芸能人・政治家の発言やそれに対する「ネットの反応」に限らず、記事のジャンルにほとんど関わりなしに、低俗なニュースサイトの典型的記事においては、取材する事件に対する読者の反応のいくつかを予め候補立てておき、その選択肢のなかから読者に選び取らせることでかれらをある立場へと追いこむことで、かれらが記事を目にする以前から選び取っていたはずと自分自身で信じるところの、その立場を擁護し、積極的に所信表明しようとする欲望を煽ろうとしているかのように見える。これまで語られなかったことについて語ろうとする衝動的かつどこかむやみな意欲、あるいは(私だけが)語り得るはずだという尊大な自負を猶予の与えられない形であまりにも巧妙に虚構してしまうので、それ自体が極めてパフォーマティヴな限定に満ちた要請を作り出してその上にのみ成立するのに反し、なぜそれが語られなければならなかったのかというパフォーマティヴ性を見事に忘却させてしまう。私たちは記事に言及したら最後、「なんだ、くだらない」とは言えなくなる。そして「なぜ私はこれほどムキになっているのか」という自問にも答えられなくなるだろう。

こうした事態がページのコメント欄やはてなブックマークなどで演出されるのは、討議のアリーナというよりはむしろ独語の壮大な堆積に近いものがあるが、これが飲み会での会話や、井戸端会議とおそらく本質的に異なるのは、言葉の隣接性に基づいた話題の遷移が許されることなく、「反応に対する反応」の連鎖にともなう、果てしなく微視的な問題へと人を連れこませることである(※)。

 

これは声によるコミュニケーションと文字によるコミュニケーションの差異を特徴的に表しているようで興味深い。書かれた文章はその言葉遣いのひとつひとつをつぶさに見ることを可能にし、そこで言及されている単一の問題へと読者の集中を限定させる。面と向かっての会話の場合、相手の発話を細かく吟味する時間的な余裕はなく、その全体の印象をつかむだけにとどまるために、会話は必然的に全体の流れとその自然さが重視されるので、話題の唐突な転換や、発話内容への食い下がるような言及はたいてい好まれない。こうした事情は、間違った言葉遣いをした者や、一人だけ頓珍漢なことをまくし立て続ける者への周囲の反応を観察すればより明らかとなるかもしれない。同じ人間、同じ対話相手であろうと、対応の仕方は如実に異なってくるはずだ。

 

こうした事情から、ニュースサイトが「反応に対する反応に対する反応」のような、ときとしてあまりに些細で取るに足らないように思える話題(例を挙げれば

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140930-00000003-jct-soci

を取り上げるのは、決して他に取材するネタがないからでも、たまたまネット上で目についたことを投げやりに記事にしただけでもない。この記事が読者にある立場を選び取らせることを通して熱心に意見表明させることにこうまで成功をおさめたのは、ひとえに「硫黄」という言葉についての言葉遣いというミクロな問題圏へとかれらを引きずりこんだからだ。それは御嶽山噴火という災害から話題がうってかわって移転したのではない。むしろ、災害を扱ったニュースのただなかから、そのニュースを構成するごくわずかの一部分が語るに値するものとして取り上げられ、拡大を遂げた結果なのだ。

そこにおいてニュースサイトが読者をおびき寄せることに完全に奏効する、限りないように見える微視性への方向性と所信表明への欲望が見事に結託する場所はどこにあるか。これについてはまた別の機会に述べよう。測定系の立ち上げで今日は疲れた。