思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

Not How But What

ラカンはこう読め!」を読む。ラカンについての解説書はこれで4冊目だろうか。ジジェクは、「大文字の他者」という概念は言表行為をコンスタティヴ・パフォーマティヴなものに分類する言語行為論の射程をはるかに超えているという。

言語行為については過去に少し考えを巡らせたことがあり、そのとき私は問題点を以下のように絞っていったのだった。

つまり、事実確認的な発言というものがけっきょく遂行的な文脈に回収されてしまう以上、この類別はまったく意味をなさない。むしろ重要なのは言表行為のコンテクストがいかに立ち上がってきてわれわれの会話全体を貫く場として共有されるかであり、その地平は生活の形式とでも言う他ないものとなるだろう。すると、互いの生活形式が一致していることをわれわれは知らず知らず事前に突き止めているという「強い」前提が要請されそうに思えて、少しおかしなことになってくるのだ。というのも、「言語ゲーム」という表現は、コミュニケーションをまったく実在の対応物を伴わない、いわば花札やカードの応酬と同じものだとイメージさせるが、これとまるで逆の状況を意味する帰結となるからである。

しかし、コンテクストの共有、つまり会話における他者把握の様相が相互に一致するという奇妙な見かけは、いまや「大文字の他者」の観点から考え直す必要がありそうだ。問うべきはなぜ発話がそのように成立するかではない。かれをして発話させる他者というものが何であるかである。そしてこの他者とは決して実在する会話の相手ではないのだ。