思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

カメラの「ゴッド」とテレビの「マッド」

シティ・オブ・ゴッド」を観た。「シティ・オブ・マッド」では労働であれ悪事であれ、人を力強い義務感へと仮借なく追い立てる倫理(それはいわゆる悪徳も含まれるようなおそろしく両義的な倫理を指すが)の欠如がもたらす言いようのない焦燥といらだちがねっとりと描かれていたのに対し、こちらは殺しの欲望を満たしたときにリトル・ダイスが見せる、いかにも開放的な笑みの強調に象徴されるように、スラムでの殺戮をギャングたちの日常に寄り添いつつ、いささかポップなものとして描いているようである。両者の映画はともにスラムの残忍な子どもたちの精神的な出来を突き止めようとするジャーナリスティックな精神から製作されたものと推測されるが、その興味のもち方にはかなりの差が見られる。これはおそらく、背景のコンテクストを極限まで取り去らうことで、劇的なインパクトだけによって扱う事件をその対象と近接的なもの(ギャングの抗争・その世代交代あるいは警察のギャングとの癒着など)に移し替えようとするカメラと、同じくインパクトを重視すれども、繰り返し報道し解説し解釈することを通して、事件そのものを扱うことから拡大して、事件から演繹して社会全体(麻薬の子供への影響、ストリートチルドレン、教育の問題など)について言及しようとするテレビと、2つの媒体の差が反映しているのか、少なくともカメラ的な換喩への衝動とテレビ的な隠喩への衝動という興味の視線の質的なちがいによるものであろう。

「ゴッド」においてカメラマン志望の青年が語り手であり、作中にスナップ的な静止画がしばしば挿入されること、また「マッド」において事件を報道するテレビ映像がリアリスティックに映し出されるのは、映画の構成と関わりのないただの偶然ではなく、そうしたメディアとの密接な関係を指し示すひとつの合図なのだ。

 

話が変わるけれども、そういえば木曜の深夜に大学キャンパスの図書館近くで複数の学生が「タヌキだタヌキだ、タヌキの子どもだ」と指さしているのを見かけ、そちらに目をやるとしっぽの大きな小型の動物が道路脇をちょろちょろと走っているのである。しかしタヌキにしては頭部が大きめなので、周りの学生は「タヌキ・・・かな・・・?」と途中から少し自信なげな感じであったが、確かにあれはタヌキではなくアナグマであった。とあるハンターのサイトによればタヌキとちがいアナグマの肉はたいへん美味なそうで、アナグマの照り焼きを想起しつつ、小走りする小動物を尻目に私は自転車を疾走させていったのだった。