思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

アルパインをやる大学山岳部を描いた「山を渡る」という漫画が昨月に出版されていた。登山やアルパインをテーマとした漫画は数多いが、本格的な山岳部に取材した漫画はこれが初めてなのではなかろうか。少し読んでみたらとても魅力的な作風で絵もきれいだ。

 

俺は大学のワンダーフォーゲル部に入っていたが、社会人になって山岳会に入るまでアルパインやクライミングにまったく興味がなかった。当時の俺が好んでいたのはもっぱら縦走だったし、一般登山道以外のところを行くという発想すらほとんどなかった。

縦走しかやらない人間にとって、たとえば北アルプス南アルプスや北海道大雪山系の大縦走というものが目標になりうる。ところがそれだけでは物足りなくなって、次第にバリエーションルートに興味が湧いてくるものだ。それで藪漕ぎやあるいは穂高の西奥縦走などの岩稜に挑戦したくなるのだが、これでようやく北鎌尾根や劔北方稜線の存在を知るようになる。アルパインライミングのジャンルに踏み入るには、さらにこの先にまで興味の範囲を広げる必要がある。しかも、ある山岳の頂上に立つということではなく、岩や氷を登ることそのものに楽しみを見出そうとする頭の切り替えができないと、アルパインに手を伸ばす気は起きないだろう。

このように、一般登山とアルパインは見かけよりもずっと別物のジャンルであるため、前者から始めてクライミングに手を出すまでにはしばしば紆余曲折を経なければならない。俺の場合は、大学入学時から社会人2年目までの8年の期間がかかった。その点、アルパインから山登りを始めた場合は、沢登りや縦走、藪漕ぎなど、何にしても垣根があってないようなものだ。なぜなら、アルパインにはそれらの要素が多かれ少なかれ含まれており、アルパインで登ることで、当然のように他のスタイルの登山にも触れることになるからだ。

おれはいつになったら3級課題をすべて登れるようになるんだ~~

 

週末は葛西のリードクライミングジムに行く予定を立てていたのに、山岳会の他のメンバーの都合でわざわざ印西のジムにまで行くことに。ふざけんな遠すぎんだよ。人口壁を数本登るのになんでせっかくの休みを丸一日潰さないといけないわけ? しかも人数増えたら外岩みたいに待ち時間やらクライマーをビレイする時間ばかり増えて、ろくに登る時間ないじゃねえか。そういうのが嫌だから俺は葛西のジムに行こうって声かけたんだよ。

俺は登りたいからジムに行くんであって、別に他人とコミュニケーション取ったり、和気あいあいとみんなで仲良くするためにクライミングやってんじゃねえんだよ。こういう遠出で時間をむだにするなら、近場のジムに行って一人でボルダリングやった方が100倍ましだわ。ホールドで頭かち割ってぶっ○すぞまじで

体重が58キロを超えていた。社会人になったばかりのころは54キロだったというのに信じられない。ボルダリングで腕周りと胸にだいぶ筋肉がついたとはいえ、せいぜい56キロくらいだったはずだ。残り2キロはいったいどこの肉なんだ?

ブロークバック・マウンテン」「ショーン・オブ・ザ・デッド」と、アンソニー・ホプキンス主演の映画「日の名残り」を観た。

 

ショーン・オブ・ザ・デッド」は、ふだんの怠惰で無気力な生活がすでにゾンビみたいなものじゃないかというブラックユーモアを描いているのかな? そうでなければあまりにつまらない。

年末年始の城ヶ崎クライミングでは、トップロープではあるが5.10bのルートを5回ほどトライした末に落とすことができた。外岩の経験少ないし、まあこんなもんか・・・

 

ジムのボルダリングでは2級課題にときどきチャレンジしているが、歯が立たない中でもなんとか突破口が見えてきたものがある。今年は2級課題の大半を登れるようになること、スラブや垂直壁でない1級課題をひとつでも登れるようになることを目標にしたい。

象形文字としてのエクリチュール―われわれが政治を語るとき―

ある主張なり見解なりを述べたとして、あらゆる他者の解釈に対して、それが他者の解釈であるという理由だけで誤解と誤読に満ちていると無条件に思い込む、あるいはたとえそこまで極端ではないにしても、自分の所信がそれと対立する所信によって相対化され並列されうるという事実を拒みつづける感覚は身近なものではある。前者の行きすぎた場合、エクリチュールが他者にとっても、むしろ自分自身にとっても根源的に理解不可能であるような象形文字としての役割を強く嘱託されることがある。

 

政治や社会経済に関する私見を述べるとき、われわれは本当のところ、現状の自分が持っている以上の知識や文献を踏まえた上で、述べようとしている主張を検証したり前提を論理的に明らかにしようとするほど政治や経済にそこまで興味をもっていない。そんな面倒くさいことをしなくとも、原則や論理とは関わりなく、そこで語られたことは依然として「われわれにとって」正しいのであり、自分が主張していることを別の側面から検証したり、前提としている原則を突き詰めていったときに導かれる事態もまた正当なものなのか吟味することは、私見を述べるときには不要で余計なことで、ときとして主張そのものに対して真っ向から逆らい傷つける有害なもののようにさえ感じられる。

このとき、それは象形文字として嘱託されたエクリチュールと典型的に呼ばれるものになる。なぜなら、そこで語られたことは、論理的な前提を明らかにすることを拒むことによって、議論を成立させる統辞的な規則へ組み込まれることなく、語る当人にとっての「語られなかったこと」を表象し、かたどる役務を担わされるからである。これが象形文字と表した意味である。そして、それはしばしばタイピングされた文字の連なりとして表されると同時に、口から発されて意味を凝結させることなく大気中に霧散していく当人の語りそのものであり、にも関わらずそれが文字の連なりとして発されるとき、「語られなかったこと」が時間をさかのぼって偽造される。これがエクリチュールと表した意味である。

さて、われわれがこの象形文字としてのエクリチュールをひり出すとき、文字はもはや字義によって語られていることを語っていない。字義とはエクリチュール依代であり、「語られなかったこと」の幽霊が文字にとり憑いている。それは端的に言うならば、語るわれわれが、語らないことによって意味しようとする「語ろうとすること」、いまだ語られぬわれわれ自身そのものなのだ。