思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

エヴゲーニイ・オネーギン

金曜日夜から大阪に滞在している。研究室の同期や後輩に会い、教授に一年ぶりに挨拶するのが主な目的だが、ついでに親戚への挨拶や京都にいる旧友にも会おうと考えて、月曜日まで滞在することにした。あいにく土曜はホテルの予約が取れなかったため、この日だけはカプセルホテルではなくネットカフェに泊まっている。

 

俺のそばへと屈託なく近づいてくる奇特な人たちを除いて、なぜ俺はあらゆる人間に対して、――それが好意を寄せている女性であっても――、「きみのことはひとりの人間として尊重しているが、それは俺があらゆる人間に対してわけ隔てなく尊重する限りにおいてそうするからであって、きみがほかの人間となにかがちがうわけではないということを知っておいてほしい」というぎこちない頑なさを崩すことができないのだろう。

どうして俺は他人に興味をもつことができず、小気味の良い会話や冗談で相手を楽しませようとする意思をもつことさえできないくせに、タイ人のNとのlineをひそかに日々の楽しみとし、そしてその一方で、すでに連絡が途絶えたにもかかわらず、Kを想い続けることで責めさいなまれる苦悶を手放すことができないのだろう。

Kよ、きみは、俺が山に登るたびに自分のものとしてきた、他者に対する公平な傍若無人さを俺からすっかり奪い取ろうとしている。単独で山に登る傲岸な強靭さを俺から抜き去り、この足腰をすっかり萎えたものにさせようとしている。Kよ、俺はたとえ自分が乞食のように落ちぶれたオネーギンで、きみがこともなげに告白を振り捨てるタチヤーナであってもかまわない! すべてはもう遅すぎた、だが俺はオネーギンであることをまだやめることができないでいるのだ!

仕事や女のことを考えていると、バフチンの言葉を忘れてしまいそうになる。

バフチンが「ドストエフスキー詩学」で語った言葉とは、その過酷な環境をおぼろげに想像することさえできない遠い惑星の、金属水素の大地のもとにメタンの湖が点在する広野を歩んでゆく足の裏の感触である。あるいは、「ペドロ・パラモ」で描かれるような、土の下に埋められた無数の死人たちがひそひそと始終交わしているおしゃべりである。「白い牙」のホワイト・ファングが、荒くれものどもとのはげしい闘争のなかで、それを手繰り寄せ、材木に鉋をすべらせていくかのようにゆっくりと彫琢していくところの、おのれに流れる四分の一の犬の血である。「カラマーゾフの兄弟」において、アリョーシャに施された寸志を手に取った赤貧のスネギリョフが、顔を赤色にしたり青色にしてぶるぶると震わせるその肩の震えである。

こうしたイメージをよりしろとして想起される感情はすべてこの社会では無用の長物とされているか、はなからそんなものはないとあつかわれているが、俺はこの感情なしでは自分が生きている心地がしない!!

遭難者に出くわしたら

たとえば、人跡のまれな山中で人事不省の人を見かけ、外部に救助を要請することが困難な場合、かれの体重にもよるが、俺はかれを助けるために可能な限りふもとまで担いでゆこうとするだろう。それは俺が他者を気遣うことができる人間だとか、道徳的であることを意味するわけではない。というのも、俺がそのようなことをするとしたら、それは単にふもとまで担いでゆくことに何か挑戦しがいのあるような面白みを感じたか、あるいは要救助者に対する卑劣な優越感を噛みしめるためにやるのであって、かれの身を案じる思いが俺の中に湧いてくるとはちょっと思えないからだ。実際、かれがとてもじゃないが俺の背負うことのできないほどの大男だとしたら、かれを見捨てることもいとわないだろう。一刻も早く外部に連絡するために、山行を中断して下山するかどうかも怪しい。あまつさえ、かれを気遣ってその場に寄り添うなんて退屈な真似は考えにすら及ばないにちがいない。それが若い女なら話は別だが。

このように俺は自分のことにしか興味がないので、傍から見たら倫理というものを小馬鹿にしているようにしか見えない、背反した態度を平気で取ることができる。そして実際におれは、世間一般の道徳というものに心底うんざりしていて、こっそり唾を吐きかける機会がないかうかがっている有様なのだ。俺がまともな人間でないのは俺自身がよく知っているので、そんな俺がまともな人間どもの社会の中で平気な顔をして暮らしているのが痛快に思えるときがある。それが単独行から下山した瞬間の喜びというやつの一部を構成しているのかもしれない。

日光白根山-皇海山縦走

 

五色沼避難小屋から皇海山にかけてはバリエーションルートであり、一部ルートファインディングを要する。宿堂坊山手前まではときおりGPSで現在地を参照しつつ歩いたが、1991mピークとネギト沢のコルの中間でスマホを落として紛失してしまったので、それ以降は紙地図と照らし合わせながら歩いた。

こんなアクシデントはあったものの、俺は事前に立てた計画通りに山行をやり遂げた。そればかりでなく、自分自身に課したシビアなコースタイムを完璧に守り抜いた。これが俺の実力だ。