思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

遭難者に出くわしたら

たとえば、人跡のまれな山中で人事不省の人を見かけ、外部に救助を要請することが困難な場合、かれの体重にもよるが、俺はかれを助けるために可能な限りふもとまで担いでゆこうとするだろう。それは俺が他者を気遣うことができる人間だとか、道徳的であることを意味するわけではない。というのも、俺がそのようなことをするとしたら、それは単にふもとまで担いでゆくことに何か挑戦しがいのあるような面白みを感じたか、あるいは要救助者に対する卑劣な優越感を噛みしめるためにやるのであって、かれの身を案じる思いが俺の中に湧いてくるとはちょっと思えないからだ。実際、かれがとてもじゃないが俺の背負うことのできないほどの大男だとしたら、かれを見捨てることもいとわないだろう。一刻も早く外部に連絡するために、山行を中断して下山するかどうかも怪しい。あまつさえ、かれを気遣ってその場に寄り添うなんて退屈な真似は考えにすら及ばないにちがいない。それが若い女なら話は別だが。

このように俺は自分のことにしか興味がないので、傍から見たら倫理というものを小馬鹿にしているようにしか見えない、背反した態度を平気で取ることができる。そして実際におれは、世間一般の道徳というものに心底うんざりしていて、こっそり唾を吐きかける機会がないかうかがっている有様なのだ。俺がまともな人間でないのは俺自身がよく知っているので、そんな俺がまともな人間どもの社会の中で平気な顔をして暮らしているのが痛快に思えるときがある。それが単独行から下山した瞬間の喜びというやつの一部を構成しているのかもしれない。

日光白根山-皇海山縦走

 

五色沼避難小屋から皇海山にかけてはバリエーションルートであり、一部ルートファインディングを要する。宿堂坊山手前まではときおりGPSで現在地を参照しつつ歩いたが、1991mピークとネギト沢のコルの中間でスマホを落として紛失してしまったので、それ以降は紙地図と照らし合わせながら歩いた。

こんなアクシデントはあったものの、俺は事前に立てた計画通りに山行をやり遂げた。そればかりでなく、自分自身に課したシビアなコースタイムを完璧に守り抜いた。これが俺の実力だ。

やめてくれよ

課長から「お前、なんかタイ人とやらかしてないよな?大丈夫だよな?」と念を押すように聞かれるので、「大丈夫です、なにもやましいことはしてませんよ」と答えていたのだが、あまりにしばしば尋ねられるので、不思議に思っていたところ、課長が俺のことを懸念している理由がようやく分かった。

そもそもの発端は、タイで働いている日本人駐在員が、俺とタイ人女性エンジニアの関係についてあることないことを言いふらしているのが原因だったようだ。現地子会社の社長がそれを小耳に挟み、課長との打ち合わせの席において、俺のことを指して、「○○っていう新人が(出張で)こっちに来てるみたいだけど、どんなやつなの? なんかタイ人が話題にしてるんだよね」と尋ねたものだから、俺がなにかスキャンダルを引き起こして子会社出入り禁止になりやしないかと課長は不安になっていたようだ。

 

俺のことをあれこれ噂にするのは勝手にすればいいが、俺の傷心をふざけ半分でもてあそぶのは正直やめてほしい・・・

タイ出張Ⅳ ゲート

会社が手配した車で空港まで送迎されたのは、6月11日の夜だった。そのときの孤独と惨めさときたら、わずか一週間前、スワンナプーム空港に降り立ったとき、熱気にあてられた高揚と快い緊張感に包まれていたことが遠い夢のように感じるほどだった。折しもその日の夕方は暴風雨がアユタヤを襲い、停電が数時間続いたのだった。空港へ送迎されたのはすでに停電が回復したあとだったが、自分だけが冥府の闇に閉ざされて、地盤沈下して水浸しになった大地にひとり取り残されているような寂寥感をぬぐい去ることはできなかった。人の温かみが俺の足を知らずしらず萎えさせて、単独で山に登ることの過酷さに耐えきれなくしてしまったかもしれないという不安にとり憑かれた。

大雨のあとの湿気で爛れた空気に包まれて、車は夜の高速道路を突っ切っていく。後部座席の車窓から橙色の照明を煌々ときらめかせるカフェが覗いたときは胸が張り裂けそうになった。それは俺に笑顔を振りまいてくれたタイ人女性の朗らかさを痛切に思い出させたからだった。そして、俺があの柔らかい照明のなかに迎え入れてもらうために差し出すことのできる持ち物を自分自身の内側に探ってみたとき、何の役にも立たないガラクタばかりが充ち満ちていることに気づいて愕然としたのだった。文学は、「運命論者ジャックとその主人」は、300年前の人びととの架空の交流を築き、古今の人間すべてに対する無条件の深い連帯を意識させることはあるかもしれないが、それは、食事をし、冗談を言い、笑いころげる実在の人間の体温を感じ取ることのできる関わりにはいっさい寄与することのない、見事なゴミクズなのだった。そして俺はそのゴミクズをたずさえて、今や日本へとひとり帰国しなければならないのだった。

空港は、車窓から覗いたときのカフェの温かみを払いのけるような、ぎらついた照明で彩られていた。ゲートに降り立ったとき、たとえようもない感情の津波が、代わるがわる俺の胸に攻め立ててきた。それは不甲斐なさであり、決然とした発奮であり、耐えきれない孤独であり、タイ人Nへの深い親愛の情であった。彼女は、Kに対する俺の慕情を理解しつつ、つねに俺との友情を疑わず親身に接してくれた。互いに弱みをさらけ出して、なにかまだ語られていないものについて語ろうとする健気な姿勢を崩すことがなかった。こうしたNとのささやかな絆が、空港のまぶしすぎる明かりによってあえかに蒸発し、バンコクの蒸し暑い大気のなかへと拡散してむなしくたち消えていくような幻覚に襲われた。そのとき俺は自分の両目に涙がにじむのを抑えることができなかった。ゲートから先へと足を進めて屋内に入ろうとしなかったのは、押し寄せる感情のさなかにあって、変わらず俺にぎらぎらと照りつける空港の白銀の照明が、日本へ戻らなければならぬという使命感をじわりと呼び起こしていくからだった。俺は色とりどりの感情の手ざわりをひとつひとつ確かめていたくて、もう少しゲートの前で立ちつくしていたのだった。

タイ出張Ⅲ 記憶

タイ式カラオケの本来の楽しみ方を知ったのは、帰国前日の6月9日に再度カラオケに連れて行かれたときのことだ。この店のカラオケ嬢はこなれていて、だいぶ盛り上がった。出張者や駐在員の皆と狂ったようにはしゃぎ、女性の肩に腕を回しながら酒を飲みキスをする。だが、それの何が楽しいというのだろう? 見も知らぬ女性とディープキスしながら思い浮かぶことは、まず、「トリストラム・シャンディ」に登場する、専門分野を身につけた半狂人、あるいは専門分野を身につけることで存在の骨格を歪められ、暗い穴の奥底で猿のようにぶつぶつと独語をつぶやく半狂人どものことだった。嘱託されたことを果たさずに帰国の途に着くこと、自分のすべきことをこなしている周りのタイ人や出張者の中にあって、煙を掴みとろうとするような絶望的な努力を無為にさらしながら右往左往していたこと、ベストを尽くしてきたつもりであっても、自身の軽率によってそれが幻影であったことが暴かれたこと。こうした不甲斐なさは、俺に専門性というもののグロテスクな様相を開示させた。たとえ工場で多くのことを学んでなにかしら専門と言えるものを身につけたとしても、朽ち果てた動物園の檻のなかに閉じこめられて、ひとりごそごそと身を動かしては死を待つだけの動物のように、自分がなにをしているのか、なにをしたのかも分からぬまま地中の暗闇に埋もれ去っていくだけではないのかという虚無が俺の胸にからみついた。アユタヤの片隅で日本人相手に元気溌剌と媚びを売り、ホテルに行かないかと誘う目の前のカラオケ嬢がなぜか次第に鏡を見ているように映ってきた。アルコールの回った頭のなかで、ウォルター・シャンディとトウビー・シャンディの、いつ終わるともしれない気味の悪いおしゃべりがえんえんと鳴りひびくのを抑えられなかった。

そして、次に想起されてくるのは映画「トレイン・スポッティング」と、セリーヌの小説「夜の果てへの旅」だった。ああ、それは俺にとって、この大地をひとりきりで歩んでいくときに薫ってくる痛々しいまでの自由であり、その狂おしいまでの希求そのものだった! 俺は広大無辺の砂漠のど真ん中で、あるいは遠い山並みを見晴るかす切り立った稜線のてっぺんでこう叫ぶことだろう。

君らの方から駆けつけてくるな、君らは俺の視界の入らないところでせいぜい好き勝手やっているがいい、君らのもとから離れるのは俺の方からだし、駆けつけてやるのも俺の方からだ。

誰が帰還を待ち望んでいるわけでもないこの俺を救援隊に、自由へのすがすがしい愛情とともに他者のもとへ駆けつけることのできる救援隊にしておくれ!

というのも、俺を救援隊にしてくれるのは、この大地を噛みしめる二本の脚だけだと信じていたからだ。そして実際に、俺を押しつぶそうとする大地の引力のすべてを呻吟するかかとで受け止め、両脚をふんじばって山に登るたびに、俺はこの肉体に栄光を降臨させてきたのだった。その記憶の数々を豪奢な衣装のように身にまとうことで、俺は俺を鎖でがんじがらめの家畜にさせる表象をなんとかおおい隠そうと、虚しくもがくのだった。

ところが次に俺に迫ってくるのはなんだったろうか、「失われたときを求めて」のスワンの惨めったらしい恋と、「トリスタン・イズー物語」で描かれる、身が引きちぎれるような愛欲の渇きだった。俺はこの後におよんで、タイ人のKのことをまだ忘れられなかったのだ。オデットに泣いてすがるスワンのように、あるいはイズーを激しくむさぼろうとするトリスタンのように、俺はKを一途に恋い慕っていた。なんと滑稽で惨めな愛だったろうか。あの柔らかい微笑みの裏で何を考えているのか、とうとう何も分からないで終わってしまったにも関わらず、それでもKへの痛烈な思いが消え去ることはないのだった。

タイ出張Ⅱ

宿泊するホテルはマーケットの一角にあり、マンゴスチンランブータンなど、見たこともないフルーツを果物屋でいくつか買った。それを職場にもっていって、食べ方を教えてくれと隣の席の女性に頼んだところ、皮をむいて食べやすいように小皿によそってくれた。それだけでなく、周りの席のエンジニアは毎日お菓子や焼き鳥やごはんなどを俺にくれた。かれらの親切心がたとえ部外者に対して一時的に示す表面的なものであるとしても、その屈託のなさには驚かされる。
仕事の話をしよう。ありていに言って、俺は今回の出張で子会社になにひとつ貢献することができなかった。原因は明らかで、俺が動作確認を済ませておくべきはずだった製品製造用の治具が不完全なために、出張中に調整を終わらせることができなかったためだ。また、新製品製造ラインの立ち上げ業務に一生懸命に食らいついているつもりでも、日々変化していく状況にとうとう追いつくことはできなかった。俺が担当として内容を把握しているのは全体からしたらほんの豆粒のようなもので、製造ラインの全容は巨大な城のように計り知れないものだった。だが、こうした自分の無力さ以上に俺を惨めにさせて、胸が張り裂けるような苦しみを与えたのは、俺がすべき業務を果たさずに、ついにはKをうんざりさせ、半ば呆れさせてしまったことではないだろうか。

俺がタイ出張が決まってこうも胸を躍らせていたのは、ひとえにKに再会してあのとろけるような笑顔をまた見ることができると思ったからだった。だが、Kはまるで初めて会うような態度で終始俺に接したのだった。彼女が日本に滞在していたとき、あれほど毎日lineでメッセージを交換したにも関わらず、彼女はそれをあるまじき過去としてなかったことにしたいとでも言うような素振りだった。それは仕事中だからだと俺は自分に言い聞かせたが、それも6月10日土曜日までのことだった。

その日、同じく出張に来ている部署の先輩とともに、タイ人KとNにアユタヤ観光に連れて行ってもらったのだった。Kは観光に行く前からすべてにうんざりしているような態度を隠そうとしなかった。俺の顔を見ようともしなかったし、なにか話しかけても眉間をしかめて適当に一言返事するだけで会話を終わらせようとするのだった。そして、俺は、彼女が前日までの素振りになんら隠し立てをしていなかったことを痛烈に思い知った。俺はKの態度に戸惑いを覚え、彼女のしかめ面をのぞき見るたびに、好意を伝えることに恐怖しか感じなくなっていた。

タイ出張Ⅰ

社会人2年目、部署に本配属されて1年足らずでの海外出張だった。タイのスワンナプーム空港に到着したのは6月4日の夕方。空港の外に一歩出るとバンコクの熱気がじっとりと感じられる。着替えやタイ人への手土産を詰めこんだ登山用のザックを背負った背が、期待と意気にふるえて汗ばむ。このときの俺は、自分がなにかしらを自力で成し遂げられるとまだ素朴に信じることができていた。その程度にはこれまでの仕事でベストを尽くしてきたつもりだったからだった。

タイ人Nが会社の先輩とともに車で俺を迎えに来てくれた。子会社工場があるのはアユタヤであり、空港からは高速道路を使っても1時間半程度はかかる。滞在するホテルの前で降ろしてもらったあとは、すでに出張していた上司や日本人駐在員の方に日本料理屋に連れて行ってもらう。その後はカラオケに連れて行かれる。

タイのカラオケにはカラオケ嬢というものがいて、何人かいる女性からひとりを選んで一緒にお酒を飲むことができる。お金を出せばホテルに持ち帰ることもできると聞いた。上司らは一番の若手である俺の目を気にしてかなり控えめだったので、これまで風俗の経験がない俺は楽しみ方を知らずに終わってしまった。俺は酒を飲んでもまずいとしか感じられない上に、カラオケもそこまで好きではないので、ちっとも面白くなかった。

翌日からは、タイ人スタッフとともに仕事を始めることになった。総じて平均年齢が若く、女性が半数以上いるためか職場は和気あいあいとしている。しばしば私語を交えて、お菓子を食べながら仕事をしているが、キビキビとしていて動作に無駄がない。スタッフは学部卒が一般的であり、働いて3,4年のものはたいてい日本での研修経験がある。出張先の部署は特に平均年齢が低く、俺と同程度の年齢の者はすでに中堅社員として活躍していた。かれらは英語がかなり上手だ。難しい単語や表現を使わずとも流暢に伝えるべきことを伝える英語力を身につけている。