思ったこと、考えたこと。

日々思ったことや考えたことを日記代わりに綴っていきます。がんばります

俺の孤独が誰のものであるか

山に登り、縦走を完遂させるときにひそかに発揮されていた原動力が、人と交わることで毀損されて俺の足が鉛のように重くなることを怖れる。他者と交わっていようがいまいが俺が孤独であることに変わりはないが、他者が俺を不安の滝壺に落としこむのは、俺の孤独をかれら、彼女らが奪い去って、二本の足で立っている大地の感触を根こそぎにしてしまうからだ。

まだ帰国せずに日本の事業所で働いているタイ人女性から、タイのお菓子を買ってきたから一緒に食べないかと誘われて、社員寮の食堂で一時間半ほど話す。

タイに帰国したKとはもうlineすることはほとんどないだろうと思いきや、今日はものすごい頻度で話しかけてきた。

彼女たちの人懐っこさには面食らう。寂しがり屋というよりも、他人と時間を共有することをごく自然なことと考えているようだ。それはタイ人が家族を重視していて、日本のように社会人になっても一人暮らしすることがあまりないことと関係があるのかもしれない。

救援隊にしておくれ

俺は、たとえ自分が複数の他者から受け入れられているときでさえも、むしろ受け入れられているときにこそ、かれらの優しい視線から背を向けて、一目散に逃げ出したくなるような無限大の悲痛を味わう。

だが、こんな俺でさえもタイ人のKといるときは別だった。彼女に対してだけは、人のために尽くそうという思いが素直に芽生えてくるのだった。そして、俺がこんなにも心から人に親切にしたのは生まれて初めてとさえ言えるものだ。

江ノ島の海岸で彼女と隣り合って座っているときは、彼女がもうすぐ帰国してしまうことを思って胸が張りさけそうな気持ちになるとともに、それがかえって彼女が隣にいる時間を余計に甘美的なものにさせるのだった。

犬夜叉とクマのキャラクターが好きで、チョコレートとつけ麺に目がなく、冗談をよくいう彼女はすでにタイへ帰ってしまった。タイへ行くことがあったら観光案内をしてあげると彼女は約束してくれたが、俺が向こうで彼女に会ったとしても、別れのつらい思いをくり返すだけだろう。彼女が俺のことをどう思っているのかは分からない。いまさら確かめようとしたところで、苦しみは増すばかりで何になるのだろう。

だから、俺はこの悶えるような胸の苦しみを取り払うために、ふたたび山へ向かうだろう。俺は、こうして世俗のあらゆる価値観と人間関係をまるごと唾棄するかのように払いのける他に、思考を女性のことから解き放つ術を知らないのだ。

テグジュペリよ、どうか俺をおそろしい重力の魔法から救い出しておくれ。針のむしろに寝転がるような、他者と関わることの苦しみのもとから上空へとすくい上げて、俺が自分の足でふたたび痛みのもとへと帰り着くだけの寛大さを与えておくれ。誰が帰還を待ち望んでいるわけでもないこの俺を救援隊に、自由へのすがすがしい愛情とともに他者のもとへ駆けつけることのできる救援隊にしておくれ!

俺は、たとえ自分が複数の他者から受け入れられているときでさえも、むしろ受け入れられているときにこそ、かれらの優しい視線から背を向けて、一目散に逃げ出したくなるような無限大の悲痛を味わう。

この心理はきわめて謎に満ちており、自分でも驚くほどだ。

だが、俺のあまのじゃくな尊大さが、砂漠のど真ん中に不時着したテグジュペリのように、こう口ずさむのを許してほしい、君らの方から駆けつけてくるな、君らは俺の視界の入らないところでせいぜい好き勝手やっているがいい、君らのもとから離れるのは俺の方からだし、駆けつけてやるのも俺の方からだ。

ファインディング・ニモ」を映画館で観たのは中学生のときだったが、ドリーがやかましい上にど忘れが激しいことにいらだつばかりで、映画を楽しめなかった記憶がある。当時の自分のアホさ加減にはあきれ返るばかりだ。

ある先輩と職場で話すとき、なぜかいつも笑いがこみ上げてくるので、それをこらえるのに必死になる。だが、けっきょくはお互い笑いをこらえきれずに吹き出してしまう。あの先輩は存在自体がツボなのだ。いったいどうなっている?